●2/28に観た青山真治の『すでに年老いた彼女のすべてについては語らぬために』に導かれて、スガ秀実『「帝国」の文学』の「漱石と天皇」の章を読み返してみた。ここでスガ氏が、漱石が大逆事件について間接的に語っているとして引用している『思ひ出す事など』の部分は、青山氏がその作品において引用している部分とほぼ重なると言っていいだろう。それは、進化論などの近代科学によって「吾等は辛きジスイリュージヨンを嘗めている」と述べている部分、つまりそこで述べられているのは、天動説が崩れることであり、自然の中心に人間がいるのでは決してないことを悟ることであり、「日本丈が神国でないこふを覚え」るということであり、つまり自然という「残酷な父母」を認識することでもある。大逆という「王殺し」は、このような近代的な認識から生まれた訳だが、それと同時に大逆事件に関わった者たちが殺されるという事実も、「自然という残酷な父母」にとっては何ものでないということだ。もう一つは、ドストエフスキーの死からの生還について記した部分であり、つまりドストエフスキーは「特赦」によって死を逃れた訳だから、ここで漱石は「残酷な父母」ならぬ、明治天皇という「慈愛に満ちた父」による特赦を期待しているという訳だ。だから漱石は、自然という「残酷な父母(ファルス的な父やファルスの不在である母への恐怖)」を否認するために、最終審級として慈愛に満ちた父である天皇に救いを見い出すということなのだ。スガ氏によれば、漱石の「平民主義」のようなものも、ファルスとしての父を否認する慈愛に満ちた父=天皇(明治天皇)という審級があるからこそ可能になる、ということになる。そこで興味深いのが、慈愛に満ちた父を説明する時に、柄谷行人によって引用されたフロイトの「ヒューモア」という概念をもってきて、ヒューモアとは慈愛に満ちた「超自我」のことだとか何とか言っている部分で、つまりここだけ読むと「柄谷の言っているヒューモアっていうのは結局天皇によって可能になるものなんじゃないの」という柄谷批判とも読めることだ。