02/03/03

(昨日の補足)
●その、誰もが思わず引いてしまうほどの「ゴリゴリ」ぶりが何ともトッポくて挑発的だという意味で青山真治の『すでに年老いた彼女のすべてについては語らぬために』はカッコイイと思うのだけど、そこで言われているような、日本という空間内部にいる以上どのような問題を考えても結局は「天皇」という問題に突き当たらざるを得ない、というような意見に対しては疑問を感じる。(この辺りが、青山真治と言う非常に優れた映画作家に対するぼくの根本的な疑問とも繋がる。『Helpiess』は大好きな映画だけど、それは89年を舞台にした「親父」が死んだ話だからではない。)昨日書いた夏目漱石との関連で言うと、「自然という残酷な父母」(つまりそれは物理的な法則のような絶対的な法=象徴秩序と言い換えうるものだと思う)に対して、人が直接的にそのような苛酷な環境に触れてしまうのを避けるための一種の文化的な緩衝装置としてある「慈愛に満ちた父」=明治天皇というのが漱石が必要とした「天皇」という存在なのだ、とスガ氏が示した訳なのだが、そのような緩衝装置は、人間が(共同体が)自らを守るために至る所に張り巡らしている装置の一部分でしかないのであって、それらのすべてに(たんにローカルな装置のひとつにしか過ぎない)「天皇制」というレッテルをはり付けてしまうことは、逆にそれを普遍化、神話化してしまうことにしか貢献しないのではないだろうか。確かにぼくも、「天皇制」はなるべく速やかに撤廃されるべきだと思うけど、それが「日本」にとって特権的に重要な問題だとは思えない。
問題なのはむしろ、そのような「日本」というシステムの内部で働く、外部(自然、或いは絶対的な法)からの衝撃を緩衝する装置としての「天皇」ではなくて、(たんに外交的な意味で)対外的にあらわれる「主権者」としての天皇なのだと柄谷行人は言っている。例えば「批評空間」第2期24号の『天皇と文学』においての発言。《主権あるいは主権者というのは、対外的に現れる。それは決断する主権者ですね。カール・シュミットが言うように、これは普段は見えないので、例外状況(戦争)においてだけ出てくる。普段の状態で国家を考えると、それは議会とか政府とかになったり、あるいは、軍・官僚機構だとかいうことになるけども、例外状況において出てくる主権者こそが国家である。》《天皇をたんに国内だけで見てゆくと、主権者という面が消されてしまう。主権者というのは外に対して主権者なんだから。国内だけで天皇を見ていると、天皇というよりも、国家の主権そのものが、あるいは国家の自立性が見失われてしまう。表象論では、天皇をたんに国内的に見てしまうことになり、国家を見失う。》このような場合、国内から見ても天皇は決して「慈愛に満ちた父」などではなく、国家というものがもともと「暴力」を孕んでいるということを常に思い出させるようなヤバい存在として、暴力的な感触、あるいは暴力への恐怖という感情とともに現れてくるものとしてあるのだ。《たとえば、日本で天皇について書く時に、何をみなが恐れるのか。テロルを恐れる訳です。それは現実には極めてまれです。けれども、それは依然として残っている。日本で天皇の問題がいまだに残っているというのは、そういう暴力としてのこっているわけで、他には何もない。僕の言いたいのは、日本にはまだ絶対主義が残っているということじゃない。国家は本質的に絶対主義国家なんだということです。国民国家とか国民主権とかいうけれど、国民は、絶対主義国家が作ったものでしょう。だから、それは暴力という形でそのことを思い出させるんです。アメリカでは「民兵」がそれを思い出させる。アメリカ国家は、国際法や国連に従属しているが、それらを否定して、主権を回復せよというのが、彼らの主張です。そういう暴力がどの国家にも隠れていると思う。》(補足として浅田彰の発言も引用しておく。《主権sovereigntyというのはまずは君主権だった。その君主は生殺与奪の件を持っていて、反逆者はいざとなったら拷問の果てに嬲り殺される。このことが物語を発情させる訳ですよ。そういう構図は近代以降潜在化されるけれども、近代国家が絶対主義国家の末裔であるかぎりにおいて、必ずどこかに残っている。対外的に、とくに戦争ともなると、それがはっきりと現れるわけです。》さらに浅田氏によるほとんど決定的な発言。《たとえば坂口安吾でいいわけじゃないですか。天皇制なんていうものは、その時々の政治の必要に応じていろんな形で利用されてきたシステムに過ぎないんで、そこには何も深いものんか無いんだ、と。現に、敗戦後、占領軍が廃止しようと思ったら廃止されて、今頃は日本人は天皇のことなんかまったく忘れていたはずだと思いますよ。》)