03/12/07

●『しあわせの理由』(グレッグ・イーガン)とストア派との関連を示唆されたこともあって、ストア派についての参考として樫村晴香の『ストア派アリストテレス・連続性の時代』(「批評空間」2002・3-2)を読み返した。この文章は9・11についてのものでもあり、樫村氏にしては珍しく時事的なものだというイメージがあったのだが、読み始めると(いつものこととはいえ)その構えのあまりの大きさと内容の濃さにクラクラしてしまう。『しあわせの理由』についてはまた改めて書くと思うけど、ここでは、この樫村氏の文章に書かれている、アメリカと世界との関係についての分析の部分だけを取り出して、自分のためのメモとして、引用し、まとめておく。

●《ブッシュが「アメリカへの攻撃は自由に対する挑戦だ」というとき彼は正しい。この言葉が笑いではなく漠然とした居心地の悪さを人々に与えるのは、アメリカという、世界のなかで特殊な一群、神に向かって宣誓することを強要し、自由や愛を文字どおりの普遍性として信仰する唯一の集団が、その信仰ゆえに、絶え間ない技術革新と投資に邁進して世界経済の生産力となり、それを信じない者の下部構造となっているからである。》

つまり、我々が反アメリカ(反帝国)と言うことが出来るくらいには「知的」であることが出来るのも、アメリカの生産力が《余剰価値論的には搾取率を上げ》ながらも《新技術がそれをはるかに超えて生産性を向上させ》ることで可能にしている、ある程度の生活の余裕によって支えられている、ということで、このねじれが、我々の笑いをひきつらせる。

ジョゼ・ボヴェマクドナルドを打ち壊しピザハットに攻め込む時、アメリカのせいで世界が貧しくなっているかのように語るのは、古風な左翼的デマゴギーであり、中国人と同じ賃金で働きたくないという要求を隠蔽している。》

ブッシュが馬鹿であることは確かだろうが、しかし、《この国だけが膨大な労働力と高度な頭脳を世界中から受け入れ続け、文化的熟成を犠牲にしつつ、新たな投資と技術革新の輪を作って、世界経済を支える生産力となっていること。そういった国では、クリントンやゴアでさえ自己の鏡像にはできず、より素朴なイデオロギー的同化対象を必要とする人々が、数多く存在すること。人がブッシュや共和党の存在を否定するなら、それはこの国の存在を否定し、今日の科学技術の過半を否定する、反実仮想に等しいこと。》を忘れるわけにはいかない。

だが、だからといってアメリカを、アメリカ的な信仰を受け入れなければならないということではない。

《すじ肉だらけのゴミ屑のようなハンバーガーや、機械油に雑巾を浸したごときピザなどの、犬の餌を世界じゅうに食べさせ、時給五ドルで働くことを分相応だと信じさせ、それら全てを人生には成功すべきだという布教と共に世界中で遂行する者たちを、彼らの領分に留めおき、耐え難いことを耐え難いものとして記述し続ける営為は必要である。》

アメリカへの抵抗は、「耐え難いことを耐え難いものとして記述し続ける」という営為として見出される。《アメリカは敵ではなく、人々の困難は、野蛮な信仰ではなく、自らの不信仰の未熟さのなかにある》のだから。

現在の世界に存在する政治的・経済的困難を、アメリカを想像的な敵とし、その一人勝ち的な繁栄こそが原因だとみなし、アメリカによってテロリストと名指された反アメリカ的な攻撃を、アメリカの圧制やアメリカとの経済的な格差に起因するものであるとみなす言説に対しては、次のように書く。

《何かことを起こす者がいると、人はすぐに、背後に貧困か幼児虐待を指摘する。マルクスフロイトの下部構造は大流行だが、因果関係というものが元々そうであるように、それは単に因果関係の想像化であり、人は、すぐにミサイルを撃ち返したがる野蛮人、精神病者が事件を起こせば厳罰を要求するような野蛮人と、自分を区別するためだけの呪文としてそれを語る。しかし、ビン・ラディンは貧乏でも病気でもなく、たとえ貧乏か病気だったとしても、人が人を殺すには十分な文化精神的理由がある。彼らが耐え難いと考えているものは、わたしたちがそう考えているものと同じであり、他人を蹴落とすことを自分への挑戦だと考える類の信仰である。》

人は、たんに貧乏だったり病気だったりするだけでは人を殺さない。そこには「文化精神的理由」がある。この指摘は非常に重要であるように思われる。人はしばしばあまりに容易に、理解出来ない他者を「怪物」に仕立て上げる。しかし、「彼ら」が耐え難いと考えているものは「私たち」がそう考えているものと同じもの、「他者を蹴落とすことを自分への挑戦だと考える類の信仰」であり、つまりそれによって資本主義的な生産性の向上が支えられているような信仰である、と。《他者を自己の鏡像として目的化し、崇め、隔て、無視するのではなく、彼の欲望と考えを冷静に理解すれば、常に彼は見窄らしい。》ここで樫村氏が記述しているのは、まさに世界の「連続性」であろう。

(づづく)

付け足し日記。真夜中に、テニスコートと球技場に挟まれた、全く人通りのない道を自転車で走っていたら、しばらくの間、チリチリチリチリ、という鈴の音がすぐ横をついてきた。猫でもいるのかと思ったのだが、等間隔で街灯があって決して真っ暗ではないのに、何も見えなかった。