03/12/06

ジャ・ジャンクーの『青の稲妻』がビデオで出ていたので観直した。ぼくはジャ・ジャンクーの映画がとても好きなのだけど、それは多分にノスタルジーのような感情と結びついていると思う。ジャ・ジャンクーの映画は、スタイルとかそこから受ける感触としては、70年代の藤田敏八神代辰巳の青春映画と80年代初頭のパロディアス・ユニティ(黒沢清万田邦敏塩田明彦などが所属していた立教大学の映画サークル)の8ミリ映画を混ぜ合わせたものみたいだし、写っている人や風景は日本の昭和40年代の人や風景(のスケールを大きくしたもの)を思わせる。あるいは、アメリカ(アメリカ映画)との関係なども、日本の昭和40年代に近いものがあるかもしれない。ジャ・ジャンクーの映画の良さは、現代の中国の風景が映画というメディアによって捉えることこそが相応しいようなものとして拡がっていることと密接に結びついているように思う。おそらくジャ・ジャンクーはごく素直に「映画」というものを信じていて、そのことがそのまま、中国の「現在」を捉えることと結びついているのだろう。もし、ヨーロッパの映画作家がやったら、いかにもシネフィル的なくさい遊技にみえてしまうかもしれないことを、ジャ・ジャンクーがやるとそこに生々しい感触が息づいてくる。そこには「青春」と言ってもそれほど気恥ずかしくないような何かが確かにあるのだろうと思う。これはやはり(物語が悲劇的なものであっても)「幸福」と言うべき事柄だと思う。ところで、グレッグ・イーガンの『しあわせの理由』という短編集のなかからいくつかの短編を拾い読みしたのだけど、我々は(少なくともぼくは)、『青の稲妻』の登場人物たちよりはずっと、『しあわせの理由』の主人公に近い場所にいることを認めざるを得ないだろう。この事実はもう誤魔化しようがない。それが決して「しあわせ」なことだとは言えないとしても。