阪本順治『ぼくんち』をDVDで。映画の冒頭の部分を観た時には少し嫌な予感がした。原作についてはほとんど知らないのだけど、ちょっとブラックな捻りが入っているとはいえ、どこか牧歌的でノスタルジックでユートピア的な感じのするファンタジーを映画でやって成功している例をぼくはあまり知らない。こういう話には、様々な曲者的で多様なキャラクターが登場するのだが、しかしこのような「多様性」というのは実は見せかけのものに過ぎず、はじめから「ある世界」を構成するための予定調和的なピースに過ぎない。このようなキャラクターは、一見強烈な(エキセントリックな)個性を有しているように見えて、実は調和のとれた世界(あらかじるめ作者によって調整された世界)のある部分を構成するものとして、他者とのどのような摩擦もなく組み込まれているのだ。つまり、このような作品の多様な人物、(時にシュールですらある)多様な細部は、ある安定した世界があらかじめあるからこそ、そこで可能になる多様性でしかないのだ。このような作品は大抵、作者好みの「テイスト」を表現するに留まってしまうような、静態的で退屈なものとなる。しかし、しばらく観つづけていると、この映画が必ずしもそのような退屈なものではないことが分かってくる。『ぼくんち』が、たんに非現実的なノスタルジーに浸されたファンタジーであることを免れているのは、何といってもその描写のリアリズムによると思う。物語としては、ノスタルジックなユートピアの世界であるのだが、その具体的な描写には、いかにも阪本順治らしい雑多なリアリティがある。つまりこの映画は、物語上の架空の島を舞台にして、架空の人物が動き回るのだが、その架空の世界をリアルなものにしているのは、実際にある空間や物や俳優を演出する監督の的確な眼差しであるのだ。例えば、主演の観月ありさを、テレビなどで見る限りぼくは全く魅力的だと思ったことがなくて、表情はのっぺりとして貧しし、自らの手足の長さをいつも不自由そうに扱いかねているように見える。しかしこの映画では、その長い手足を乱暴に無造作に投げ出すような演技がなされ、その表情の貧しさが積極的に全面に出されることで、そしてまたその長い手足が、短い手足の子供たちと対比されることによって、非常に魅力的な運動がつくりだされる。特に、観月ありさが部屋で死んだように眠っている(この「横たわり方」は素晴らしいしエロい)ところへ、子供の兄の方(一太)が荷物を取りに返ってきて、観月の寝姿を見ているうちに子供も傍らで眠ってしまうシーンや、月を見上げる観月がアパートの階段を大股で登ってゆくシーンなどは素晴らしくて、観終わった後には、『ぼくんち』という映画が観月ありさの身体なしでは成立しなかったもののように思えてくる。(観月ありさが「演じて」いるのではなく、観月ありさの身体によって映画が組み立てられ、動いている。)あるいは、「鉄爺」と呼ばれている、川原の掘っ建て小屋に住む鍛冶屋で、鉄クズを拾ってきて加工し直し、ヤクザにいい加減なチャカを売りつけたりする、いかがわしいが、キャラクターとしては民族学的な類型に納まってしまうような人物が、志賀勝という俳優の今までみたことのないような使われ方によって、不思議なリアリティが与えられていたりする。空間の無国籍的な雑多さによって表現される「貧乏臭さ」も、阪本氏によって撮られると決してポストモダン風の無国籍にはならず、本当に貧乏臭い雑多さに見える。それでもこの映画では、登場人物のキャラクター的な類型性が鼻についたり、あるいは泣かせようとするシーンがあまりに通俗的に流れたりしているところがどうしても気になるので、決して『顔』のように成功した作品とは言えないと思うのだが、逆にだからこそ、阪本監督による描写の力がはっきりと示されてもいて、ああ、阪本順治っていい監督なのだなあ、映画ってやはり描写なのだなあ、と思わせられる。だが、であるからなおさら、子供の弟の方(二太)が島を出て行く時の一連のシーンの連鎖が、あのように美的にと言うか幻想的に処理されていることには疑問を感じてしまう。