●昨日の「安定性」についての話のつづき。実際には世界はそんなに安定などしていないし、だから「私」と「世界」との関係を安定して持続させることは困難だろう。しかしだからこそ、目の前の次々と移り変わる風景に翻弄されることなく、一定の努力なり探求なりを持続させるためには、人工的に「安定」を仮構することが必要になる。例えば柄谷行人は、「理念」は仮象でしかなく、それを信じることは宗教に近いが、それでも、スパンの長い、大きな規模での実践や思考(つまり目先の効果が期待できる利己的なものではない、リスクとベネフィットに還元されるものではない実践や思考)を可能にするにはそれが必要(有効)なのだとする。理念がなければ、まさに激動する世界のなかで「生き残る」ことに翻弄され、まとまった、持続的な思考や行為が出来るだけの「スペース(隙間)」を確保できない。このような意味での「理念」もまた、世界と自分との「長期で安定的な関係」を媒介するものの(自分を越えたものとしての「世界」にはたらきかけるための)、「好ましい」一つのあり得る形なのだと思う。ただ、「安定性」を確保するために有効なのは、なにも「理念」というようなものだけではないだろう。もっと単純に、即物的に、生活のリズムやベースを意図的な努力によって安定化することも、一つの有効なやり方であるだろう。例えば保坂和志の『季節の記憶』の主人公は、比較的に時間の縛りの緩い、収入の不安定なフリーの仕事をしているのだが、その生活のリズムやペースは、案外厳しく意図的に律されている。毎日夜のうちに次の日の朝食をつくっておくし、毎朝決まった時刻に散歩に出ることが日課となっている。この毎朝の散歩は、毎年の季節の反復というより大きな規模での(つまり「世界」の側での)反復の存在を登場人物たちに自覚させるだろう。恋愛のような「一線を越える」関係は抑制され、親しい、好ましい友人たちとの関係を維持することに、繊細な注意が払われる。このような、意図的な努力によって整備された環境の「安定的な持続」のなかでこそ、登場人物たちの、浮世離れした、役にも立たないような、抽象的な問いを、開かれたままでいくつも交錯させ、立体的に組み立てては、また解いてゆく、という思考の持続性を確保するスペースが開かれる。ここでも、安定性こそが、「私」という限定的なスパンを越えた、「世界」の側へとひろがる思考を可能にする。これは一見、バブル期にみられたポストモダン的「お気楽さ」の延長のようにみえるかもしれないが、バブル的ポストモダンがたんに「好景気」に支えられていたものに過ぎないのに対し、保坂的「お気楽さ(に一見みえるもの)」が可能にする抽象性は、強い意思によって意図的に整備された「世界と自分との長期で安定的な関係」によって支えられている点で全く異なる。
ゴダールトリュフォーについて、トリュフォーは少年時代に愛情に恵まれなかったから、大人になってから家族的な関係を周囲の人たちと築く必要があったのだが、自分は愛情に恵まれて育ったので、そのようなものは必要としない、という意味の発言をしている。一見すると酷い言い方のようにもみえるが、これは恐らく自分とトリュフォーは(資質が、あるいは作品を生成するシステムが)「違う」ということだけを言っているのだ。つまり、持続的な思考や実践を可能にしてくれるものとしての、世界と自分との「長期で安定的な関係」を媒介するもののあり様は、その人の資質や置かれた環境によってそれぞれ全くことなる形を必要としていて、簡単に一般化など出来ない。当たり前のことだが、ゴダールの「異様なまでの強度に満ちた孤独の(差異の)力」は確かに素晴らしいが、誰でもがそれを真似ればよいということではないし、それだけが特別に素晴らしいということもない。つまりそれは、それぞれが自分でみつけ、つくり上げるしかないものなのだ。