『エレニの旅』と牧ゆかり展

●京橋のメディアボックス試写室で、テオ・アンゲロプロス『エレニの旅』。とにかく「映画って凄い」ということを、その映像と音によってたちあげられる圧倒的なイメージで突きつけられ、突きつけられっぱなしの2時間50分なのだった。ファーストショットからいきなり鳥肌がたつくらいで、寝不足の状態だったので寝てしまうかも知れないという心配があったのだが、とても眠るような「隙間」がない映画で、あらゆるショットで身震いがするというか、動揺させられっぱなしで、映画の流れに無理矢理引きずられているうちに上映時間が過ぎてしまう。最初の「ニューオデッサ」のシーンなど(と言うかあらゆるシーンがそうなのだけど)、一体どれほどのお金がかかって、どれほどの労力がかかったのだろうなんて思うのは、観終わってしばらくして多少冷静になってからのことで、観ている間はそんなことを考える余裕などなく、ただそこに現れるイメージを受容しようとするだけで精一杯なのだった。この映画の凄さは、アンゲロプロスって凄い、と言うよりはやはり、映画って凄い、という凄さで、ここでアンゲロプロスの関心は、自らの作家性よりも、「映画」という媒体からどれだけのもの(イメージ)が引き出せるのかにあるように思える。今までのアンゲロプロスだったら、ちょっと通俗的すぎる。とか、ちょっとわざとらし過ぎる、とか、ちょっと美し過ぎる、という理由で抑制していたであろうある一線が崩れ、通俗的になってしまうことも恐れない果敢さでやり切っていて、その結果、今までのアンゲロプロスの作品で、最も分かり易く、普通の意味で面白いものになっているのではないだろうか。映画の中心にいるのが若い男女であるせいもあって、最近のアンゲロプロスからは失われていた軽やかさのようなものもあり、それが「面白さ」に繋がっているとも思う。とはいえ、終盤、ひたすら悲痛さばかりが重ねられるこの映画を、単純に軽やかだとか面白いとか言うことは出来ないのだけど。(ぼくなどのところに試写会の案内を下さり、この映画をいち早く観る機会を下さったフランス映画社の方に感謝します。)
●『エレニの旅』は、『永遠と一日』以来6年ぶりの新作なのだが、『永遠と一日』は「これでおしまい」という印象が強く感じられる映画で、この「次」が一体どういうものになるのかとても興味があったのだが、『永遠と一日』でいったん何かを終わりにした後で、アンゲロプロスがまた新たに生まれ直したという印象を、この『エレニの旅』からは受けるのだった。勿論これはアンゲロプロスの映画であり、おなじみのアンゲロプロス的な主題がここでもくり返し反復されるし、特に『ユリシーズの瞳』の焼き直しと言うか、仕切り直しのようなシーンが目につくように思うのだけど、そのシーンの意味と言うのか、それらのシーンたちによって組み立てられる「映画」全体のもつ意味が、以前のアンゲロプロスのものとは微妙に異なっているように思える。身も蓋もない言い方をすれば、これはやはり「終わった後」の映画で、この映画を構成し束ねている視点は、現在の世界に対する(政治的な?)働きかけや介入がほぼ断念され、終わった人として、現在とは途切れた過去=記憶のなかに入り込み、そこでもはや「失われてしまったもの」についてだけ、語り、歌い、詠い、涙し、祈り、悲痛なうめき声を挙げる、といった、喪の作業が行われているように感じられる。この映画の終盤を染め上げるひたすらな悲痛さや、その悲痛さと不可分な、ほとんど冥界的な美しさの理由は、そこにあるのではないだろうか。例えば、同じように歴史に翻弄される集団を素材にしている『旅芸人の記録』の群衆シーンやそれを捉える長回しエクリチュールには、そのダイナミックの運動によって世界が動いているという生々しい感触があって、だからこそそこには(失望ばかりがくり返されるとはいえ)政治的なものの可能性が信じられているようにみえるのだが、『エレニの旅』の群衆はまるで幽霊の集団のようで、そこではただ名付けられない、歓びや悲しみや怒りや嘆きが、ざわざわとざわめき、振動して、時に静まり、時に荒れ狂う、というだけのように見える。しかしだからといって、この映画は、たんに巨匠が後ろばかりを向いて過去と戯れているというようなものとは違う。ここには、今までのアンゲロプロスとはやや異なったかたちでの、現在との接点があるように思う。
●公開前の映画なので、その内容にあまり深く立ち入るのは抑制したいのだが、この映画で最も印象に残ったシーンの一つに、夫も子供も亡くした女主人公が悲嘆にくれている時に、かつて彼女に石を投げもした村の老いた女が、その掌で彼女の背中を懸命にさすってやるというシーンがある。この映画は、この老いた女の掌のように、そして背中をさすってやるという行為のようにして、現在と触れ合っているように感じられる。自らも悲嘆のなかにいる者が、さらに深い悲しみに沈んでいる者の背中に思わず手で触れ、さすってやること。その行為のあまりの微弱さと、その貴重さ。唐突だが、ぼくは橋本治の『ふらんだーすの犬』を思い出した。(以下、『ふらんだーすの犬』の重要な「内容」に触れてしまいます。未読の方は注意。)この小説の登場人物、母親に虐待されて死んでしまう少年は、病院で看護婦たちの手で身体をさすられながら死んでゆくのだが、意識の混濁した少年はその掌の暖かさを母親のものだと思い、お母さんがはじめて優しくしてくれた、という歓びのなかで死んでゆく。『エレニの旅』は、この掌のようにして、この掌のようにしてだけ、生々しく現在に触れているように感じられた。
●『エレニの旅』は、今年の春頃に公開されるそうです。
●凄い映画を観てしまったので、どうしても印象が薄くなってしまって申し訳ないのだけど、午後6時からの試写会の前に何件か立ち寄った画廊でちょっと面白かったのは、スルガ台画廊でやっていた牧ゆかりという人のペインティングだった。最近の若い作家のなかには、「よくぞの若さで」と驚くほどに「ちゃんとした絵」が描ける人(こんなに上手くて羨ましいというような人)がたまにいて、このような事実は、日本の美術が今までとは少し異なった新たな方向に動きつつあるのではないかという(いい感じの)予感をぼくに抱かせるのだが、しかしその、「ちゃんとした絵」の描ける若い作家のほとんどが、作家同士のちょっとした噂話のレベルで話題になるばかりで、美術ジャーナリズムみたいなレベルでは全く注目されていないという事実も一方ではあり(ちゃんとした絵は、だいたい凄く地味だし)、あまり楽観的にはなれないのだが、牧ゆかりという人もそのような一人で、名前は全く知らず、案内状は頂いたものの、正直期待せずに半ば気まぐれで画廊に立ち寄ったのだけど、予想外に良い絵だったので、思わずその場で襟を正した。
基底材として透明でツルツルしたビニールや鏡を使用したり、下地(というか「下の層」)に光沢のあるシルバーの絵の具を使ったりしていて、コントロールしずらい不安定なものの上に、原色のピンクや黄緑や白のような、これもまたコントロールしずらい色彩が乗っているのだけど、それをちゃんと制御していて、ただ上手くまとめているだけではなく、非常にデリケートな表情やヴァイブレーションまでつくりあげているのは、たんに視覚的なバランス感覚の良さだけでなく、絵の具という物質を扱う時の触覚的な感度(把握力)の良さまでも感じさせる。支持体に透明なものや鏡を使っていたり、使用される色彩の選択や絵の具の表情などから、容易にリヒターという名前が浮かんではくるが、リヒターのようなこけおどし的な「強さ」ではなく、むしろ派手な色彩(や不安定な状態の)のデリケートなコントロールにこそみるべきところがあるように思った。ただ、これは視覚的なバランスの良さに関係すると思うのだけど、ちょっときれいに納まり過ぎている感じがあって、それが、ぱっと見の感度の良さ以上には、さらに作品に入ってゆこうとしても視線を撥ねつけてしまう原因になっているようにも思えた。ただ、例えば、すがわらきよみのような人の作品は、イメージがぱっと見の一瞬で立ち上がり、それ以上そのイメージを追いかけ、入り込もうとして視線を向けても、そこにはただだらっとしたキャンバスの質感や木枠の構築といったもの(下部構造)が見えるばかりで、イメージそのものは逃れ去ってしまっていて、また改めてはじめて見るかのような視線を送る事に成功した時のみ、再びイメージがあらわれる(そしてまたすぐに消え去る)というような、まさにイメージが「陽炎のようにたちあが」っては逃れ去ってしまうところが面白いような作品で、つまり「視線が次第に深まってゆく」「時間のなかで変化し動いて行く」ような作品ばかりが良いというわけではないので、簡単には言えないのだけど。(つまり、ばっと見で勝負なのか、じわじわで勝負なのかが、牧氏の作品からはイマイチはっきりみえてこないということだろう。)
●牧ゆかり個展は、銀座スルガ台画廊(03-3572-2828)で、15日の土曜まで。