春一番が吹いたそうだ。一面に靄のようなものがかかり、それに地上の灯りが反射して空はぼんやり寝ぼけたように明るく、星はひとつも見えないのだけど、白く輝くまんまるの月だけは、その表面のクレーター模様までもがくっきりと浮かび上がっている。それを9階建ての建物の屋上から見ている。目を下に向ければ、小さなビルがごみごみと建ち並び、人々がひしめいて流れているのだが、屋上に人影はなく、ただ、ちょうど正面のビルの上に設置されている巨大な電光看板の光を照り返して、無人の床や壁が、赤く染まったり、青く染まったり、黄色く染まったり、を、規則的にくり返しているのだった。やや離れたところ、線路を挟んで向こう側にあるビルに、ブラインドもなく灯りが煌煌と洩れている窓が見える。そのフロアーはがらんとして広く、大人と子供が入り交じった10人程度の人たちが、手をつないで輪をつくり、何か踊りのようなものを踊っているようだ。宙に浮かび、遠くにあって、しかし妙に鮮明に見える(だが何をやっているのかよく分からない)、そのフロアーの情景は、それを見ているぼくに距離の感覚を失調させる。風はそれほど強くはなく、なまあたたかい空気がゆっくりと動いている。