平山瑞穂『野天の人』

平山瑞穂『野天の人』を読んだ。(「SFマガジン」という雑誌を買ったのは25年振りくらいの気がする。前に買った時には確か山田正紀の『宝石泥棒』とかが連載していた。)『ラス・マンチャス通信』は買ってあるのだが、今ちょっと、読んでいる余裕がないので、短いものをまず読んでみた。印象としては、あまりに「規範的」な文学的(物語的)短編という感じだった。「野天人」という存在が、両義的な意味の含みをもったメタファーとして機能していて、不気味な感触を持った細部が、そのメタファーに、たっぷりとした幅やニュアンスを付け加える。
野天人とは、まず、実際に存在した人たちの記憶に、その説得力の起源をもつと思われる。子供の頃ぼくの周りにも、この小説で野天人と名付けられている存在に近いような人たち(と言うか、この小説が造形している野天人という存在が喚起する「感情」に近いものを、ぼくが感じていた人たち)がいたという記憶がある。それが具体的にどういう人たちだったのか、何か特別の「徴」を社会的に刻印された人たち(被差別者のような人たち)だったのか、たんに特別に貧乏な人たちだったのか、今でも分からないのだが、周囲とは明らかに異質な感じのする人が、例えばクラスのなかにも一人くらいはいたように思う。彼らは「いじめ」の対象にすらならないくらいの根本的な異質性を感じさせ、民俗学的な想像力を喚起させるような存在だったように(微かに)記憶している。(そのような人たちがいたのはぼくが小学校の低学年くらいまでで、高学年くらいになると、少なくともぼくの「見える」範囲には存在しなくなっていたように、これも微かな記憶なのだが、思う。)
しかしこの小説は、そのような「異質な感じ」の人たち(との関係性)を描こうとしているわけではない。むしろ、そういう人たちに対して持つような、ある種の異質性(不気味さ)の感情を利用(転用)して、それを、少女が自らの身体的成長に対して持つ違和感や異質性、あるいはもっと端的に言って、自らの性的欲望の(自分自身の意思や制御を越えて強く吹き荒れる)顕在化に対する抵抗感のようなものを(野天人というメタファーとして)形象化しようとしていると思われる。つまりここでは、不気味なもの(異質な感触)は、他者との関係(接触)における緊張をではなく、みずからの内面的緊張をこそ、表現するものとなっている。この小説での、伯母や叔父のあり様や、父親の隠された出自などは、少女と家族との関係を示すものではなく、ただ少女の欲望(欲動)のみを表現する。(ラストなどをみると、これは明らかに「少女が大人になる」という、イニシエーションの儀式の形象化であろう。)
あまりにも規範的、だと書いたのは、上記のようにして図式化して説明出来てしまうという意味だ。しかし、現代の小説の面白さは、このような規範には納まりきれない、崩れ方や過剰さにこそあるのだとぼくは思うのだ。(まあ、これは短編なので、短編だと、きれいに纏めなければならない、という抑圧が強く働くからなのかも知れないのだが。)
もう一つ付け加えれば、この小説の様々な細部が喚起する不気味さは、肌にヒリヒリするようなもの、あるいは、方向を見失って呆然となるようなものではなく、あくまで「懐かしさ」としての不気味さであるように思う。この小説の細部の記述の積み重ねを読み込んでゆくのを支えている面白さは、未知の感触に引っ張られて、未知の領域に連れて行かれる、とか、あるいは、記憶を刺激しつつ、その記憶を新たなものとして構築し直すことを促す、とかいうようなものではなく、ちょっとした違和感に刺激されつつも、しかしその違和感は実は既に知っている懐かしいもので、その(再帰した)懐かしさの感情に埋もれて行く心地よさにこそあるように思われる。(つまり、記述=描写が、知覚=認知的な生々しさによってではなく、ある程度縮減されたものとしての記憶による、ヴェールがかかったようなマイルドさによって制御されているように思える。)そのような意味で、この小説は、少女が直面する欲望(欲動)の生々しさを描いているのではなく、「少女」という形象を、あるノスタルジーのなかで(思い出話のように)消費し享楽しようとする者(作者=読者、つまり男性、あるいは年長者)の側の欲望をこそ、表現していると言えるかも知れない。
あと、単に技術的な事として、ラスト近くで、いきなりフラッシュバックのように幼い頃の思い出が挿入されることで「纏め」られてしまうのは、ちょっと説明的過ぎるし、ほとんど「夢オチ」に近いくらい安易ではないかと思う。この回想はなくても充分に成り立つのではないだろうか。(川原で少年と出会うのも、「少年」の存在が必要なのは分かるけど、ちょっと唐突過ぎるようにも思える。)