三鷹市美術ギャラリーで、クールベ美術館展

三鷹市美術ギャラリーで、クールベ美術館展を観た。
●特に有名な代表作みたいのはなかったけど、割合と質の高い小品が何点か観られた。たんにリアリズムと言うよりも、狭義の近代絵画はクールベからはじまるわけで、そのがっつりした油絵の具の質感については、例えば『シャルル・ホードレール/現代性(モデルニテ)の成立』で阿部良雄が書いている次のような文章が、きわめて的確に説明している。
《表象手段の物質性を切りつめて、表象の対象の像があたかもそれ自体として---物質的手段の助けを借りることなく---現れ出るかのような錯覚を抱かせるその際、油彩の層の薄さが、表象手段消滅の換喩となるところに、十九世紀アカデミー絵画の特徴---対象再現性のゆえに、レアリスムの名を(誤って)冠せられる特徴---があった。他方、油彩画の物質性が現実世界の物質性のむしろ隠喩として機能することこそ、クールベによって代表されるレアリスムが、アカデミー絵画に真っ向から対立するゆえんに他ならない。》(なお、この『シャルル・ボードレール』(河出書房新社)と、同じ阿部氏による『群衆の中の芸術家』(中公文庫)は、近代絵画を理解する上でとてもよい導きとなると思う。)
つまり、表象手段を意識させない状態に限りなく近づけることで、(例えばヴァーチャルリアリティのように、あたかも実際にそこにあるかのように、ありありと)表象される対象の直接的現前をもたらそうとするのではなく、むしろ、表象を媒介する介在物であるはずの表象手段そのものの物質性を露呈させることこそが、リアリティを保証するというのが近代芸術の基本的なあり方なのだ。ここで隠喩という言葉が使われていることは重要で、つまり油絵の具の物質性が、そのまま「油絵の具の物質性」を表現しているわけではなく、油絵の具が我々の感覚に与える重たい物質性は、描かれた対象(イメージ)が現実のものであるというリアリティを保証する基底的な信頼のようなものを、いわば下支えしているのだと言うべきだろう。だからリアリズムとは、表象(感覚)の直接的(現実的)な現前でもなく、そのもの自体の直接的(現実的)な提示でもなく、《油彩画の物質性が現実世界の物質性のむしろ隠喩として機能する》と言うように、あるメディウムの現実性(即物性)が、それが指し示す別の現実性(即物性)を保証し下支えする、というところにこそある。この点が理解されれば、クールベからはじまったとも言えるリアリズム(モダニズム)が、そのままきれいに、1950年代の抽象表現主義の、メディウムメディウムを意識するというようなところまで繋がっていること、それに対し、60年代からのリテラリズム(ミニマリズム)やハプニングのようなものを、フリードがモダニズムの堕落であるかのように批判したこと(つまりそれは「それはそれである」というような同語反復的な、ものそのものや、出来事そのものを示している)、などの意味が割合とすんなり理解されると思うのだ。(例えば、クールベの厚塗りと対極にあるようなマティスの薄塗りも、それは表象形式の消滅(縮減)であるより、キャンバスの地の白の露呈であり、そしてその白やキャンバスの物質性は、自らの存在そのものを主張するのではなく、それを観ている観者の目に、マティスが描いている空間や光や事物の現実性を「信頼させるもの」として機能するだろう。)
●まあ、そのようなお勉強はともかく、クールベの画家としての魅力は、何といっても、そのくすんだ中間のトーンの響きが澄んでいるところにあると思った。クールベの絵のがっつりとした物質性は、暗い部分にもがんがんと絵の具が乗せられていることによって成立している。ファン・アイクなどによって完成された油彩画の古典技法においては、(大雑把に言えばだけど)基本的には、暗い部分は半透明の絵の具の層の重なりで示され、明るい部分に、明るい色の絵の具が乗せらて「描かれ」ることになる。つまり、最も明るい部分が最も絵の具の層が厚い。ポジティブに描かれるのは明るい部分であって、暗い部分は、半透明の(液状の)暗色が何度も重ねられることによって形成されるのだ。しかしクールベは、最も明るい部分に最も明るい色の絵の具を、最も暗い部分には最も暗い色の絵の具を、同じようにがっつりと乗せている。これによって、絵の具が物(描写対象)にがっちりと食らいついているような、執拗でリアルな描写を可能になっているのだが、下手をすると、全てが単調にギラギラと描き込まれた、平板な絵になってしまう。(実際、そのような、デパートの展示即売会などで売っているような絵になってしまっている作品も、何点かあった。)それを救っているのが、中間のトーンの、何とも言えない豊かでデリケートな表情を含んだ、澄んだ響きなのだと思う。クールベにおいてはしばしば、最も明るい部分と最も暗い部分の絵の具が最も厚い。(クールベは、影としての黒をポジティブの描いた最初の画家かも知れない。影の部分の絵の具ががっちりとその存在感を示すことで、絵画は平面性に近づくのだ。)それに対して、中間的なトーンの部分は比較的絵の具が薄く、しかし、最も豊かで複雑なトーンをつくっている。この、一見くすんだ、中間的なトーンの存在が、クールベの絵の生命線であるように思えた。つまり、あらゆる細部を、その事物の質感に迫るまで執拗に描出しようとすると、画面はギラギラとして空間が潰れて平板になってしまう、という問題を解決しているのが、この魅力的な中間のトーンなのだ。特に素晴らしいのが、晴れているのか曇っているのかはっきりしない、いつもどんよりとよどんでいるような「空」の表情だろう。この空はまさに、油絵の具によってしか実現出来ないような表情の空であり、だからこそまた、それはたんなる絵の具の表情ではなく、他ならぬ「空」を、どこまでも突抜けていて、水分や埃が浮遊していて、その上からそれを通して光が乱反射しつつ降ってくる「空」を感じさせる何かと繋がっているのだ。(絵画は、実物を観ないと本当のところは分からないものなのだが、クールベは特にそういう画家だと思う。)
●この展覧会では、クールベの弟子の作品も展示されていた。それらは、才能は残酷だなあ、と思わせるようなものでしかないのだけど、ただ、ケルビノ・パタという画家の絵は、少し面白かった。クールベのような、絵の具が描写対象にかっちりと食らいつくというようなハードな作風ではなく、どちらかというと印象派(ちょっとハードなルノアールというか)みたいな、空気中に偏在して広がっている光が、画面のなかで揺らめきつつ循環しているような作風で、クールベに比べれば落ちるとは言え、なかなか良い絵で、これはちょっとしたひろいもので、観られてよかったと思った。
クールベ美術館展は、5日の日曜まで。