テリー・ギリアム『ブラザーズ・グリム』

●京橋のメディアボックス試写室で、テリー・ギリアムブラザーズ・グリム』。単純にとても楽しかった。回想のシーンで流れが滞って、かったるくなってしまう以外は、目の前に展開される圧倒的な「見えてしまう」ものに魅了されつづけているうちに最後までゆく。映画においては、現実とは切り離されたファンタジー的世界を支えるのは、「お話」が喚起する想像力の動きではなくて、圧倒的な視覚的作り込みの密度で、とにかく、あり得ない世界でも「見えてしまう」のだからそれを受け入れるしかない、というような、ほとんど暴力的な力だろう。ギリアムには、例えばスピルバーグティム・バートンウェス・アンダーソンなどのような強い「作家性」がなく、その作家性の希薄さが、個々のイメージの作り込みを返って粒立たせているようにみえる。この映画は一見して『もののけ姫』を想起させるところがあるのだが、『もののけ姫』の世界設定やそれを構成する個々のイメージは、宮崎駿という「作家」の匂いを濃厚に漂わせ、その存在と不可分であるのに比べ、『ブラザーズ・グリム』はあくまで、お金と技術と多数のスタッフの結集(つまりハリウッドの映画製作体勢)が可能にした集団的な創作物であるように感じられる。勿論そこにはギリアム的なテイストはあるし、そのようなテイストによって制御されていることで、たんに壮大にお金と技術をつぎ込んだだけの、全く空虚で馬鹿げたハリウッド的大作とは別物の、引き締まった映画になっている。しかしそのテイストには「作家」という存在を感じさせる程の強い「制御」や独自の「統合」はなく、強い制御のない分、個々のイメージが独立していわば「気まま」に躍動する感じがある。この映画に集められたそれぞれ個々のイメージそのものは、きわめて凡庸というか、典型的なものばかりではあるが、それらが、これだけの量集められて凝縮され、これだけの精度と密度とで作り込まれると、それは「典型」とは別もの何ものかに変質する。退屈なファンタジー的定型は、その圧倒的な視覚的密度によって、想像力を適度に刺激する「お話」としての安定的な魅惑が食い破られ、眼に貼り付き、強制的に眼から入り込んで、暴力的な強引さで何かを動かすような異様に鮮明な(現実以上に鮮明な密度のある)イメージの流れとなる。この映画で起きていることは、おそらくそういうことなのではないだろうか。
ただ、この映画は、未だ中世的な深さと暗さをもつドイツの森(無意識)と、半ば以上合理的な知性を身につけた(去勢された)グリム兄弟(意識)との中間地帯で生起するものとしての、典型的なファンタジーとして(退屈なくらいの)整合性をもってつくられてはいるし、もし画面を「見ること」を放棄するのならば、そのような退屈なファンタジーとして解釈して済ますことも十分に可能なのだが。
●しかし、いかに典型的とはいっても、子供を丸呑みにした馬が腹をふくらませたまま走って行くイメージとか、泥が人のかたちになって動き出すイメージとか、オオカミの毛皮を纏ってオオカミと一体化する森のなかのオオカミ男のイメージとかには、やはり単純に魅了されてしまうのだった。