『マインド・ゲーム』(湯浅政明監督、ロビン西原作、2004)

●10月10日にアニメについて書いたら、ある人から『マインド・ゲーム』(湯浅政明監督、ロビン西原作、2004)という作品を勧められたので、DVDで観てみた。
大雑把に分けて、アニメには「おたく系」と「アート系」とがあるように思う。「おたく系」は、おたく的なアーカイブ、おたく的な価値観、おたく的な作法の「中で」つくられ、基本的にそのようなおたく的諸要素(という紋切り型)の組み合わせが(現実とは切り離されたまま)高い純度・濃度で行われるなかで、そこに一種異様な細部の充実と、特異な作品風土が生まれるというようなもので、それは作家によってつくられるというよりも、ジャンルによってつくられる。対して、「アート系」のものは、作品をつくる個人としての「作家」性が強く押し出され、つまり、アニメーション表現の技術の最先端をつかって、作家がどのように自らの作家性を表現することが出来るかという点に賭けられていて、だからそこで要請されるのはジャンル内の作法や蓄積であるよりも、個性や新しさテーマといったものなのだが、しかし、個性や新しさを追求する、という態度自体が既に紋切り型なわけで、それはしばしば、(いかにも、な)斬新さや個性といった紋切り型の表現に着地しがちでもある。ぼくが10月10日に書いたのは、「おたく系」のアニメのことで、つまりあくまでおたくが「萌え〜」とか言って消費するためにつくられるような大量の作品のなかに、(ジャンル全体によって支えられる細部の豊かさや充実と、それらの諸要素の思いもかけない結びつきによって)突発的に、ジャンル内部には納まりきれないような充実した(リアルな)作品が生まれることがある、というようなことなのだった。
(ぼくは10日の日記で『フリクリ』という作品について書いたのだけど、まだ(1)と(2)しか観られてなくて、ツタヤに行っても続きがレンタル中だったので、同じ監督、同じ脚本家による『トップをねらえ2』というのを借りてきて観たのだけど、こちらは、おたく好みの「萌え要素」の濃い集積によってつくられた、おたく向けソフトポルノみたいな作品で、それを超えるものではないと思われた。しかし、(おそらくガイナックスの作品の意図的な自己模倣としてつくられている)メカ系のデザインが凄いことになっていて、それが笑えて、それを見ているだけで退屈はしなかったけど。つまりそういう意味で、ジャンルに支えられた細部の充実はあるのだ。)
で、『マインド・ゲーム』はどちらかというと「アート系」の作品で、それはおたく的ないわゆる「アニメ」的な文脈とは切れたところでつくられている。つまり、「アニメ」というジャンルの巨大な蓄積(データベース)に寄りかからずに、独力で立とうとしている作品だと思う。(とは言え、クジラの胎内での生活とそこからの脱出という設定は、容易に「ビューティフル・ドリーマー」を想起させるけど。ちなみに、押井守は、絵柄という次元では、アニメおたく=萌え的なものから距離を置いているが、その作品世界の設定や、メカニックなものへのこだわりという点で、とても濃く、おたく的な感性が刻印されているように思う。『マインド・ゲーム』にはそのはような感覚はない。)この作品では、おたく的なアニメがその細部の豊かさの源泉としている「ジャンルの蓄積」のかわりに、作家個人のセンスやスタイル、体験といったものが細部の厚みを支えている。(例えば、めまぐるしく変化する「絵柄(テクスチャー)」が、作品に疾走するようなリズム感やスピード感を生み出し、作品世界に幅をもたせてもいるのだが、その絵柄の変化も、ある統一された(ジャンルとしての、ではなく、作家としての)「センス」によって制御されている。)しかしぼくには、この作品は、アニメ的文脈=ジャンルへのもたれ掛かりはないとしても、どこかで「アートっぽい」感覚へのもたれ掛かりがあり、あるいは「作家」(ここでは主に「原作者」だと思われる)の自らのセンスへの過信があって、それが作品を弱くし、閉じたものとしているように思える。(つまり、10日に書いた『真夜中の弥次さん喜多さん』と同じような、「フィクションが、我々が生きている世界の秩序(と「信じられているもの」)を踏み越える」困難を感じる。勿論、作品としては『マインド・ゲーム』の方がずっと充実してはいるけど。)例えばこの作品では、登場人物の困難な状況はいつも、「ひたすら気合いをいれて走る」ことによって解消される。これは、作品の形象としても単調だし、テーマの展開としても充分練られているとは言えないのではないだろうか。最初の、死から生への生還が「ひたすら走ること」によってもたらされるのは良いとしても、クジラの胎内からの脱出も、ほぼ同じように「ただひたすら走ること」(しかもやたらと時間が長い)だけで、ほとんど何の具体的アイデアもないというのは、ちょっとどうかと思う。こういう部分=細部の「練り」の足りなさを「センス」(と「気合い」)で誤摩化せると思っているようなところが、「アート系」の弱いところなのだと思う。