綿矢りさ「You can keep it.」

●ぐずぐずとはっきりしない天気が一週間近くつづいた後の、昨日、今日は、とても気持ちよく晴れていた。平日の午前の通行量の少ない道路で信号待ちで立ち止まっていて、目の前を、三台つづけて大きなトラックが早い速度で乱暴に走り抜けてゆく時、その振動する荷台、車体の、大きさ、重さ、堅さを、自分の身体との比較(その時、トラックが自分の方へとハンドルを切ってめがけてきたら、逃げ様が無く、ひとたまりも無く潰されてしまうだろうという死の予感のようなものが、ごく軽く薄らと意識の表面にまとわりつく)を生々しく感じる。道路を横断してしばらく行くと踏切に行き当たる。線路際に生え、勢い良く繁っている植物。細くて、伸びたパーマのように軽く縮れながら上へ向かって伸びている茎と、先がいくつもに枝分かれしているシダ類のような小さな葉からなる植物に、たくさんのオレンジ色の小さな花や蕾が絵の具をまき散らしたように鮮やかに散って付いている、秋晴れの澄んだ空から射している光が、そのオレンジ色を非現実的なくらいにくっきりと浮かび上がらせる。踏切を電車が通り抜け、さっきのトラックよりもさらに強くて断定的な切断する力の塊ようなものが走り抜けてゆく。視界が、オレンジ色の車体で塞がれる。(駅で待っている、あるいは駅を通過する電車と、踏切を走り抜けてゆく電車とでは、まるで別物のように印象が異なる。)駅に着いて電車に乗る。隣に座っている(空いた電車なので、隣といっても2メートルくらいの距離がある)女性が読んでいる本の頁に、窓から射した日光が反射していて、開いた頁そのものが発光しているように白く輝いている。窓の外からの眩しい光に目が調節され、電車のなかが薄暗く感じられる。部屋を出る時に着て来た、レザー風に加工されたポリウレタンのジャケットの内側が軽く蒸れて、汗ばんでいるのを感じ、ジャケットを脱いだ。
●新しく出た文庫版『インストール』に収録されている「You can keep it.」を読んで、綿矢りさという作家に対する印象がかわった。(『インストール』はまだ読んでいない。)『蹴りたい背中』の主人公の女の子からは、「若い女性に対する男性の視線」への無意識での媚態のようなものが強く感じられ、そしてそれがあくまで「無意識(であるかのように装われている)」ことによって、ちょっとした「不潔さ」のようなものとしてあらわれていて、その「不潔さ」の印象がぼくにとっての『蹴りたい背中』という小説全体から感じられる一番の印象で、その(「媚態」の巧みさによって生まれる)「不潔さ」の感触こそが、この小説の面白いところでもあり、またちょっと嫌なところでもあった。(この「媚態」のあり様が、この年齢の作家にとってとても切実な問題であることは理解出来た。)しかし、「You can keep it.」は、そのような「不潔さ」という靄がかかったような感じに頼らず、もっと明快で強いものによって貫かれているように思う。
この小説の一読しての感想は、この作家は「痛い」ところを無遠慮に突いてくる人だなあ、というもので、しかしこの「無遠慮な突き」の鋭さは、あくまで小説全体の配慮されたバランスによって成立しているものだと思える。ここでの「突き」とは勿論、主人公の男の子が思いを寄せている女性からの男の子への「視線」であり、「っていうか、嘘つく理由が分からないよね」というような言葉なのだが、この小説の説得力は、この女の子が、たんに男の子や男の子が形作っているコミュニケーション的な環境の「痛いところ」を、ただ「突く」ため、批判するために存在しているのではなく、この女の子は、ただこのような女の子として(小説の都合とは関係なく)存在していると感じられるように描かれていてるところにある。しかも、主人公の男の子のような人が、このような女の子に「惹かれる」というのが凄くよく分かるし、また一方で、しかし女の子の方としては、このような男の子の「気持ち」(女の子への「思い」だけでなく、男の子がこのようなコミュニケーションの形態を形づくらなければならなかった「必然性」のようなものも含め)などさっぱり理解出来ないだろうし、そのような想像力はないだろう思われるようなタイプだということ、そして、女の子がそのようなことを理解しないような人だからこそ、男の子が「惹かれる」のだろうということ、その限りにおいて、男の子の思いは一方通行で女の子には決して届かないだろうということ、そのような全体としての「残酷」な構図(構図が成立している「場」)が、「贈与する」主人公、「贈与される」友人たち、「贈与を拒否する」女の子の、どの視点をも特権化、正当化せずに、それぞれの視点が尊重されつつ、しっかりと、また、容赦なく描かれていると思う。ごく普通の日常的な場面から、このような「関係」を見出してしまう綿矢りさという作家は、怖い人だと思った。(小説の冒頭、「贈与される」友人たちの視点から入って、次の居酒屋のシーンで視点が主人公へと移ってゆく流れとか、クライマックスと言える「インド」に関する男の子と女の子の会話の進行とか、こういうのがさらっと書けてしまうのが才能というものなのだろうか。)