●『秒速5センチメートル』(新海誠)を観た。作家としての新海誠のエッセンスを純粋に抽出するときっとこういう作品になるのだろうなあと感じた。
ほしのこえ』でもこの作品でも、二人の距離が絶対的に広がる(分離が決定的になる)瞬間に、同時に、絶対的なシンクロが起きる。それが、そのままクライマックスとなる感情を生む。「ほしのこえ」では、女の子が戦闘で負傷し(おそらく)死んでしまう直前に、それまで広がりつづけていたズレが消滅し、二人のナレーション(「ここにいるよ」)が完全に同期する。「秒速5センチ…」では、二人の心が完全に離れてしまうその時、二人が同時に、二人の心が最も近づいた瞬間の夢をみる。そして、画面上では二人のする同じ動作(電車に乗る)が重なるようにモンタージュされる。絶対的な分離と絶対的な同期という、相反するものが同時に起きることで、強い感情が生まれる。
(物語の時系列からすれば、二人の心はとっくに離れていることになるのだけど、提示される画面の連鎖としてみれば、分離と同期が同時に起こっている。)
分離と同期が同時に起きるという出来事は、二つの粒子の波動関数がもつれた状態---エンタングルメント---のままで、粒子間の距離を遠くひき離した上で、一方の状態を観測すると、その観測の影響が瞬時に(光速を超えて)他方にも伝わるという、EPRのパラドックスの話に似ていると言えるかもしれない。量子もつれの解消=切断という出来事は、瞬時に伝わる=同期する、と。
(とはいえ、『ほしのこえ』で、地球から8.6光年はなれたシリウスで女の子の発した「ここにいるよ」に至る一連の語りは、正しく光速で8年7か月かけて地球へと伝わってきたからこそ、大人になった男の子が地球上でつぶやく「ここにいるよ」と同期できるのだから、エンタングルメントというのとは違うのだけど。同期とは、あくまで画面の連鎖上でのことだ。つまり、光速を超えて情報を伝達させるものとは編集=モンタージュだ、ということか。)
余計なことだが、『ほしのこえ』で、「光速の限界による通信の遅延」のみが問題となっていて(つまり、二人の間の「距離」だけが問題になっていて)、ニュートン的な絶対時間は保持される(地球上の何年何月何日という日付が宇宙と地球の双方で共有される)というのは成り立つのだろうか。地球上の日付が、光速に近いようなかなりの速度で宇宙を移動しつづけているはずの---そもそも時間の流れる速さが異なるはずの---女の子の方にも共有されているのは、女の子が地球からもって出た携帯電話の時計(カレンダー)を参照しているから、ということでは説明はつかないように思うのだけど。女の子の方の時間が遅く進むとしたら、地球でメッセージを受け取る側からみると、距離による遅延よりさらに遅延がプラスされることになるのではないか。それとも、この程度のスケールであれば、特殊相対性理論からくるズレは、ほとんど考慮しなくてもよい程度の小さなものなのだろうか。相対性理論からみて『ほしのこえ』は可能なのか、ということについて物理に詳しい人に聞いてみたい。別に、不可能だからといって作品を否定するとか、そういうことではなくて。
(そもそも、ワープとかしちゃってるから、その辺りのことを詳しく突っ込むことに意味はないのかもしれないけど。あるいは、地球との時間のズレは常に計算されていて、修正された「地球時間」が表示されているということなのか。)
例えば、相対性理論が主題ともいえる『トップをねらえ!」では、 (『ほしのこえ』とは違って)異なる系の間のズレを客観的に計る絶対的な時間・空間(共通の物差し)は存在しないので、双方が出会うことで、その度に差異の広がりが意識される。つまり、時間的に分離した者たちは、何度も新たに出会い直しをすることでズレを確認する。だからこそ、その都度での意外な出会いがあり得る。
新海誠の場合、かつてあった「完全な出会い」が、別れ別れになっても量子もつれのように持続していて、それがある瞬間にとつぜん破綻し、その破綻が距離を超えて瞬時に同期する、という感じかもしれない。
(「完全な出会い」以外は、とるに足りないこととされ、十分に考慮されない、とも言える。「秒速…」の男の子は、遅延する電車のなかにいても、種子島にいても、会社で働いていても、恋人がいても、今、ここをほとんど見ていなくて、どこかも分からない遠い何かだけを見ている。)
(登場人物が、今、ここを考慮せず、ここではない遠くばかりを見ているのに、作品そのものは、今、ここを、過剰なまでに詳細に描写する、というのが面白いとも言える。今、ここの過剰な現前性は、過去---完全な出会い---は既にここにはない、ということの裏返しの表現と言えるのか。今、ここにあらわれているものは、「ほしのこえ」のシリウス星系のアガルタで見る光景のようなもので「まがいもの」なのかもしれない。)
●ところで、短編連作となっているこの作品の第二話は、種子島が舞台だ。『ロボティクス:ノーツ』の登場人物たちが通っていた高校と明らかに同じ高校が舞台であり、そして、同じようにスーパーカブに乗って登下校している。「ロボティクス…」で、あきほが発作を起こして倒れたバイク置き場と同じバイク置き場で、「秒速…」の女の子は男の子の待ち伏せをしている。異なるフィクションが同じ舞台を一部共有しているという、ただそれだけのことなのだけど、何か妙に興奮してしまった。
(第一話で男の子が「鹿児島に転校する」と言っていて、第二話がはじまって、見たことのあるような風景で、あれ、もしかすると、鹿児島って種子島のことなのか、と気づき、おっ、この高校は…となって、それがだんだん確信に変わってゆき、その過程で盛り上がってくる。)
この作品の登場人物は、「ロボティクス…」に出てくるのとかなり似ているのだけど、微妙に違うようにも見えるコンビニで寄り道をする(外に、似たようなベンチも置いてある)。この店が、同じなのか違うのかが気になって、ネットで調べてみたら、「秒速…」のコンビニのモデルは「アイSHOP永井店」で、「ロボティクス…」のコンビニは「アイSHOP石堂店」ということで、似ているけど違っていた。