●「ユリイカ」の、「文科系女子カタログ」という特集に執筆されている小澤英実という方から、ぼくが以前に書いた『少女革命ウテナ』に関する文章(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/yo.32.html#Anchor1863148)を引用したという報告をメールでいただいた。この文章について、女性から具体的な反応があったことを、(それが否定的なものであったとしても/実際には否定的なものではなかったのだけど)ぼくはとても嬉しく思う。
●自分のためのメモとして、『ネオリベ現代生活批判序説』という本の樫村愛子のインタビューの引用。
《もうひとつ、商品が与える幻想の変容ともかかわっていると思います。これまで「対象a」として機能し他者の幻想を供給してきたもの、たとえば性能のよい車や格好のいい服。以前なら、これらを所有したり身につけたりすることの背後には、それを見ている他者からの視線というものが想定されていたはずですが、そうしたことも崩れつつある。「カッコつける奴はカッコ悪い」として、自己言及できる知的能力を評価し出した若者は、従来の商品幻想を破壊する力をもっています。ですから、商品をめぐる物語よりも、純粋に快楽に訴えるテクノロジーの方が消費されやすくなっているんです。
まあ、基本的には幻想はますます困難になっているということでしょう。そのなかで、大学の文学部的な文化が、商品が提供する快楽に対抗できるかどうかというのは、ほんとうに厳しい闘いですよね。商品の幻想も物語も解体していく。じっさい、資本の回転が速くて、商品のなかに情報の蓄積とか時間がなくなり、物語はますます一過的。一方で、学問や知は、積み重ねてゆくことができるものですから、そこには安定した喜びや力があります。しかしそれを形成してゆくためには忍耐が必要です。学問を可能にする忍耐をどうやって身につけていくか、言葉を換えていえば、「解離的ではない主体」をどのように形成するかが問題です。そのため転移や幻想を発動する必要があります。》
《ときには、直接身体的な感覚に訴える文化や芸術を媒介にしながら、転移、つまり長期的な信頼関係を成立させた上で、忍耐強く言葉を蓄積することができる時間や空間を確保することも重要ですし、有効だと思います。それはある意味で神経症的な主体の形成であるともいえます。もっとも、ユートピア的な場を設定するような強力な神経症的主体になると、どこかに救いを求めようとして宗教の方へ行ってしまいます。そういうユートピア願望から降りた上で、刹那的な快楽を求めるのではなく、もう少し長期的にものごとを考えられるような、忍耐と記憶を保持した主体が回復される必要があります。》
《心理学・精神分析に関心をもつ学生と接触して感じるのは、学生達にとって心理学・精神分析は、昔の学生が哲学や文学にもっていた関心の対象の代替物であるということです。彼らの関心は科学的・即物的なものかというと、そうではなくて、ある種形而上学的で人間的です。「私の心はどうなっているのか」というのは、脳の回路の結合を知りたいわけではないのですから。私は福祉社会学という科目も持っていて、これもたくさんの学生が受講してくるのですが、この科目への関心も、よく考えられているような、資格とか実用性という関心なのではなく、他者の外傷に対する同化に起因していて、ある種の倫理の原型は有していることがわかります。(略)ともかく毎日毎日、ああ彼らは文学部の学生だとつくづく感じるんですよ。》
《私の最近の議論では、私の若者論に対する。若者からの評価が高いんですけど、これも、彼らのコミュニケーション空間を、バラエティーお笑い番組のノリを模倣したナルシシスティックな排外的にミュニケーションとしてだけ見ていると、彼らの生活空間の内的論理を見失うんです。つまり、自慢しないこととか、お笑いで自分や他者を叩く水平的同化と同時に、自分と他者の承認願望に対する言及という知的ゲームが彼らの共同性を維持していて、後者の知的ゲームのなかで、他者への興味もぎりぎり維持されているという彼らの固有なあり方を見失ってしまう。それは彼らの限られたリソースのなかではぎりぎりの生きる戦略なんですよね。彼らにとっての幻想や、そこにおける他者の固有性と必要性を、評価する必要があるわけです。》