竹橋の国立近代美術館で藤田嗣治・展

●竹橋の国立近代美術館で藤田嗣治・展。はじまって早々に観に出かけたのは、ぜひ観たかったからではなく、藤田について原稿を書く都合があったから。平日の昼間だというのに、予想外に混んでいて、驚く。展覧会を観て、画家としてのフジタがいっそう嫌いになった(本当に良い絵だと思ったのは、最初期のいくつかの風景画だけだった)のだが、しかし、晩年の、ほとんど陰惨というべきグロテスクな絵を観て、いろいろと感じるものはあった。
1920年代の絵は思った以上にもろにエコール・ド・パリで、南米に行くともろに南米風の絵になり、日本に帰ってくると、ちゃんと日本で受け入れられるような絵になっていて、フジタはとても優秀でセンスの良いマーケティング・アーティストだなあと思った。これは、ピカソが次々とその様式を変化させていったり、マティスがコリウールやモロッコという土地に決定的な影響を受けたりする(内的な過程)のとは違って、自分のいる(社会的、対人的)環境を的確に察知して、自分の絵が人から「どのように受け入れられるのか」を常に意識して、上手くその隙間をつく、みたいな感じだろう。これはたんに悪口ではなく、(同世代の日本にいた画家などに比べてずっと)よく勉強したり努力したりしているなあ、ということでもある。しかしこの感じは、戦前までのものだ。
●フジタの戦争画は、画家の神経で描かれている絵ではなく、ほとんどミリタリーオタクが描いたようで、つまり、細部の綿密な描写が、たんに描写のための描写にしか見えなくて(おそらく描写の「正確さ」という意味ではかなり厳密なのだと思う)、「絵」を描こうとする感性が感じられない。暗く重たい、というよりも、どろどろとして汚い色調の塊のなかから形態を浮かび上がらせようとする細い線による描き込みは、良い線を引こうとか、良い形を拾おうとかいう意識が全く抜け落ちていて、たんに細密に描き起こそうとしているだけだ。今回の展覧会で多数の実物を観て思ったのは、フジタは言われるほどに「線」の画家ではなく、作品全体の空間的な構造は、ゆるやかな調子(トーン)の流れと色彩の配置で既に決定されていて、そこに、装飾的な彩りとして、繊細な線描がほどこされる。(実際、線の表情は、かなり画面に近づかなくては見えない。)つまりフジタの絵は「線」が決定的な要素ではなく、線がなくてもある程度成り立つ(線が引かれる前に半ば以上出来上がっている)。そこへ、「売り」がひとつ付け加えられるように、線描がほどこされる。(線は、基底的な空間を揺るがすことがない。)そのような作品に比べれば、例えば「アッツ島玉砕」などは、線によって「描き起こす」ことに、もう少し積極的な意味をもたせようとはしている(線と調子との関係が一義的ではない)という意味では「野心的」ではあろう。しかし、それによって描き起こされる形態の、空間の、なんと貧しく薄っぺらなことだろうか。(設計図としての、いわゆる「構図」はかなり練り上げられてはいるのだが、実際に出来上がった画面を観ると、厚みのある下地の絵の具の層と、その上から描かれる細い線との関係が、ぐずぐずになっていて、うまくいっていないし、それだけでなく、線そのものや、線によって捉えられる形態そのものが、全然「良い」ものではない。)
戦争画を描いてしまったことは、たんに戦犯の容疑がかけられるとかいうこと(行為に対する社会的な責任という次元)だけでなく、画家としてのフジタに、予想外に大きな痕跡を残してしまったように思えた。戦後になって描かれたフジタのタプローでは、それ以前はきわめて繊細に描かれていた「線」に、非常に強く(つまり安易に)「手癖」が目立つようになってくる。そしてそれと同時に、画面が自らを制御する秩序をうしなって、混沌としたものになってくる。この二つのことは別々のことではない。(逆にいえば、ここではじめて「線」が、空間の構造をあやうくするほどに重要な要素となる。)この辺りのことは多分原稿で書くと思うのであまり詳しくは書かないけど、この手癖の前景化と混沌は、たんに絵画に対する緊張感(あるいは情熱)の低下ということを示しているのではない、もっと陰惨なものを含んでいると感じた。最晩年の、子供たちを描いた絵や宗教画などは、決して長い時間観ていたいと思えるようなものではないのだが(どちらかというと目を背けたくなるようなものなのだが)、その徹底した、半端ではない陰惨さは、決して軽んじることの出来ないものを含んでいるように思った。