東京事変『大人(アダルト)』

●ぼくは割合簡単に勘定が高ぶって泣いてしまいそうになるのだが、「泣く」という行為はおそらくとても甘えた行為で、それは人を、親の前でだだをこねているような子供の頃の情景へと退行させる。本当にどうしようもない、圧倒的な強度をもつ、現実の残酷な不条理に直面した時、多分人は泣くことが出来ないだろう。「泣く」というのは、自分よりも圧倒的に大きな存在を想像的に仮構し、そこへ向けて自分の感情を送り届け、理解して欲しいと押し付け、よしよしと言って頭を撫でてもらいたいと欲しているということで、それは多分に、想像的な他者に向けて自らの感情を「演じている」というきらいさえあり、感情を演じ、演じることを通じて自らの裸体をさらし、捧げることでことで、「甘える」ことを「許して」もらうことこそを欲している、とさえ言えるだろう。というか、自分よりも圧倒的に大きな(想像的な)他者が、「甘えることを許してくれる」と思っている(信じられる)からこそ、「泣く」ことが出来る。(自分が、大きな存在から肯定されているという感じがなければ「泣く」ことは出来ない。つまり、「泣く」ことは、自分の存在が何かから肯定されていることを(それを信じることが出来ていることを)?確認する」、あるいはそれを「パフォーマティブに成立させる」行為でもある。)しかしそこにはたんに「甘さ」だけがあるのではなく、わざわざ大きな存在を仮構し、それに甘えでしもなければやってられないという、どうしようもない孤独(や疲労)の感触が含まれている。通常の大人にとって、現実的に直面する他者は常に相対的な存在であって、相対的に好きだったり、嫌いだったり、相対的に尊敬していたり軽蔑していたり、相対的に理解出来たり出来なかったり(あるいは、理解されていると信じることが出来たり、出来なかったり)で、子供に対する親のような、絶対的な存在ではあり得ない。だから通常、大人は「泣く」ことが簡単ではないし、人目をはばからず泣く人に、普段自分が抑圧しているものと慎みなく触れ合っているような、嫌悪の感情さえ抱くだろう。
普段(つまり「意識」としては)「大きな存在」など信じてはいない大人にとって、「泣く」という退行が許されるためには、おそらく何かしらの段取り(媒介)が必要となるだろう。通常、「大きな存在」は、社会的な評価や経済的な成功などの裏側に張り付いた「他者の視線」によって代行されているが、しかしそのような場では「甘える」ことが許されないので、そのような場で生じた孤独や疲労の感触は、恋愛や家族、あるいは国家や民族といった制度や物語に、つまり別種の「大きな存在」へと繋がる通路によって回収されることになる。(大きな存在の、「昼」の側面と、「夜」の側面。)しかし、そのような装置とは多少異なるものとして「作品」という媒介があり得るように思う。例えば、あるミュージシャンが、ある楽曲において歌う声、語りかけるその声は、そのミュージシャンに対する擬似的な恋愛感情にも還元されないし、そのミュージシャンの発する大きなメッセージ(愛は素晴らしいとか、戦争反対とか、環境を守ろう、とか)への同調にも回収されない、別種の「大きな存在」(を、受け手である主体が仮構すること)への通路と成りうるように思う。つまりそこであらわれる「大きな存在」は、そのミュージシャンが表象するひとつのキャラクターそのものではない。そこには、もっと直接的に、幼児期の感情へと人を退行させるための(様々な抑圧を解いて、だらしなくも武装解除させる)「作品」という複雑なシステムが働いている。そしてそれは、たんなる退行(の場でのやすらい)以外のものとは結びつきづらいので、より、害が少ない。
●まわりくどい言い方で何を言おうとしていたのかというと、ぼくは最近、東京事変の『大人(アダルト)』を聴いていると、本当に簡単に泣きそうになってしまう、ということなのだった。だんだんと感情が高まって泣きそうになるのではなく、普通にしていて、いきなり突発的に何かがこみ上げてくる感じなので、電車のなかなどで聴いていると、前兆もなくこみ上げてくる感情を押さえるのに苦労する。椎名林檎の声で、「ぼくは透明人間さぁ〜」とか、男性の一人称で歌われ(語られ)ると、もう、へろへろになってしまう。しかし、この感情は、自分でも不思議なくらいに、椎名林檎という人への感情には結びつない(感情がそこへとは向かわない、別に椎名林檎の「ファン」になるわけではない)。その声、その語り、そのパフォーマンスは、椎名林檎という一つの対象(個人、キャラクター)として結像しづらい。しかしまた、「泣く」という行為を出現させる感情を喚起させる力は、明確に誰かしら(他者)という固有性(その存在が「甘える=泣くこと」を可能にしてくれるようなもの)に由来するという感触は濃厚に残される。しかしそれは普遍的なもの(ぶっちゃけ、母という「真実」として構成されるもの)というより、あからさまに演じられたものであり、偽物であることを隠さない。この、作品とミュージシャンとの不思議な距離感、禁欲的とも言えるし、ある時にはたんに嘘っぽいとも感じる、常にあからさまに「演じている(偽物である)」ことを示すことによって生じる生々しさのような感触には、椎名林檎独自のものがあり、『無罪モラトリアム』からかわらないように思う。(思いつきにすぎないが、これは例えば、大島弓子の『バナナブレッドのプディング』の衣良が、自らの他者への感情や性欲を現実的な世界と「関係(接続)させる」ために、「世間に対してうしろめたさを感じている男色家の男性との偽装結婚」という複雑な「偽装」を必要とした、ということとも繋がるように感じられる。)