母方の祖父の告別式

●母方の祖父の告別式。祖父は百歳で亡くなったのだが、葬儀の最中、読経の時でも、その曾孫に当たるいとこの子供たちがバタバタと走り回ったりしているし、喪主である母親の兄(祖父の長男)が、ぼくが幼い頃に感じた亡くなった「おじいちゃん」とそっくりの印象になっていたりで、時間の流れとか、親戚という関係性とかについて、いろいろと感じるものがあった。母親の実家は野菜農家で、母の男兄弟は、職人であると同時に肉体労働者であるという感じ、がっしりとした体躯と、決して愛想が良いとはいえない寡黙さからにじみ出る気難しさや荒い感じがあり、子供の頃のぼくは怖いという印象を持っていた。そして同時に、ぼくにとっての「オトナの男」というイメージの多くの部分が、母親の男兄弟によってかたちづくられたという感じもある。特に長男を怖いと感じていたみたいで、後に本人から、お前はガキの頃、俺の顔をみるだけで泣き出した、と言われたことがある。その叔父も、子供の頃のぼくに「怖い」という感じを与えていたもの、ある種の精悍で過剰な男臭さのようなものはほとんどなくなり、おじいちゃんという感じになっていたのだった。(しかし、話をすると、その端々に名残りは感じるのだが。)母親の兄弟は男四人、女三人の七人で(そのうち、男二人は既に亡くなっている)、この女三人が仲が良くて、子供の頃のぼくは、母親の実家に親戚たちがあつまる時、母親の別の側面、三姉妹のうちの一人という側面を感じたものだったが、それは基本的に今も変わらないみたいで、母親の女きょうだいが三人並んでいると、三姉妹という雰囲気になるのだった。
棺のなかの遺体を実際に目にし(頻繁に実家に遊びにいっていたらしいいとこの子供たちが、不思議そうに遺体の顔をぺたぺたと触っていたのが印象的だった)、それがしばらくして焼かれて骨になり、骨は一緒に焼かれた花の色素に染まってほんのりと赤みがついていて、それを箸でつまんで骨壺に移すのだが、その思いのほかの軽さと、揚げた煎餅のような質感(だからこれを口に入れるのはそんなに抵抗はないことなのではないかと思った)を目にしたりすると、死について、とてもプリミティブな感情が生まれてくる。出棺前まで雨が激しく降っていたのが、出棺の時にみるみる晴れてきたことなども(このことに何か意味を付与しようという気はまったくないが、それでも)、とても強く印象に残った。(「物語」がたかちづくられる必然性というのも、この辺りにあるのかも、と、感じたりした。)