A-thingsの休みを利用して、展示してある作品の撮影をする。とはいっても、撮影するのはカメラマンで、ぼくはただその場に立ち会って、いくつかの指示を出すだけで、例えば、展示風景を撮る時などに、この三点を一緒にフレームに入れて下さい、と頼んだり、この辺の物がフレームに入ってしまうけどどうしますか、と問われて、これは避けた方がいいですね、と答えたりするだけで、あとはほとんど、撮影の作業を眺めているだけなのだった。暗幕で外光を遮り、三脚を立て、カメラの位置を決め、照明をセットし、照明の前にパラフィン紙のようなものを置き、露出計で計測し、(おそらく、作品の色合いなどによって)フィルターを選び、ファインダーにレンズのようなものを当ててピントを微調整し、ポラを切り、さらに照明を微調整し、等々の作業の段取りを傍らで見ながら、映画監督とかも、撮影現場でこんな感じで待機しているのだろうか、と思ったりする。あまりじろじろ見るのも作業がやりにくいだろうから、なんとなく見ていないような見ているような感じで見ているのだが、技術的な作業の段取りを見るのはとても面白い。写真とか版画とかを制作するためには、そのメカニズムによって要求される、あらかじめ体得される必要のある、明快な(科学的な)技術体系があり、段取りがある。そして、それらを工夫することが、新しい、あるいはその人なりの効果を生むことに、直接的に繋がる。例えば写真なら、身体と切り離された写真というメカニズムがあり、その原理を知り、その技術体系に介入することで、結果としてある効果を得る。カメラという機械の原理、フィルムが感光し、それが現像され、それが紙に焼き付けられる化学的な原理は、人がその身体を使って物を見る(あるいは、人の脳があるイメージを構成する)ということとは異なるメカニズムによって支えられている。たとえ、結果として、見ているものとそっくりな像が得られるとしても、その像が産み出される過程のメカニズムは違っているのだ。だから、写真を撮る技術とは、この二つの異なるメカニズムの間に何かしらの通路をつけるということでもあるだろう。写真を撮る人は常に、「写真」という身体とは異なるメカニズムによって自らの知覚や感覚を相対化させられるのではないだろうか。対して、絵を描く時、ある像(作品)を生むのは、つまり、世界と作品とを媒介するのは(勿論、絵の具やキャンバスという物質でもあるが)主に画家の身体であり、記憶であり、無意識であろう。ここには、カメラやフィルムといった、実も蓋もなく身体を突き放して相対化する「他なる」原理がない。つまり、メカニズムを外在化しづらいし、技術を汎用化(共有化)しづらい。写真を教える、と言う時、その教える内容の多くの部分は技術的なものによって占められるだろう。しかし、絵を教える、と言う時、そこでは一体何が教えられるのかよく分からない。(今日、たまたま、NHK教育テレビで水彩画の描き方みたいな番組をやっていたのだが、全く最悪の内容で、こういうくだらないマニュアルが「技術」と勘違いされたりしがちになってしまうのだ。)確かにぼくはぼくなりの技術をもっていると思うし、それは簡単に人が真似できるようなものではないというくらいの自負はあるのだが、しかし、ぼくの技術は、ぼくの作品をつくるためにしか役に立たないし、そればぼくという身体の上でしか作動しない、という部分が大くを占めている。(だからこそぼくは、メカニズムを出来るだけ言葉によってトレースしてみたりして、外から見たり、検討したり出来るようにしたい、という欲望があるのだが。カメラマンがカメラを換えるようには、画家は自分の身体を取り替えることは出来ない。だから、筆の替わりに木の枝を使ってみたりして、それによって感覚が動き、ズレる感触から、身体上のメカニズムを揺るがし、計測しようとしてみたりする。)
写真を撮る「段取り」を見ていてとても面白いのは、メカニズムが段取りによって外在化されて表現されているのが面白く、それによって自分が絵を描く時の段取りへと介入する時の刺激にもなるからなのだろうと思う。