保坂和志『途方に暮れて、人生論』

保坂和志の『途方に暮れて、人生論』を読みながら、この本に収録されているエッセイのほとんどから、『アウトブリード』のあとがきにある(今、ちょっと本がみつからないので、正確な引用は出来ないけど)、夜、歯を磨いている時にふと、自分は明日がくるのを望んでいないと気づいた、と書かれていたような感覚が、遠く響いているように思えた。というか、そのような気分のあり様が、具体的に、わかりやすく追求され、記述されているのが、この本なのではないだろうか。
どこかのブログで読んだ保坂氏の『季節の記憶』についての感想に、この登場人物たちは一体どうやって食っているのかがわからない、と書かれていたのだが、しかしその感想は間違いで、『季節の記憶』には、その登場人物がどのように収入を得ているかはちゃんと書かれている。にも関わらず、このような感想が出てくるというのは、この感想を書いた人が、特別な職業に就いている人でもなければ、収入を得るための労働に、多くの時間と、それだけでなく、多くのエネルギーを注がなければ、とても生活は成り立たなくて、この小説に出てくる登場人物のように、毎朝子供と一緒に散歩したり、役にも立たない抽象的な話ばかりをだらだらしているような余裕などないはずだ、という思い込みがあるからだろう。まともに働いていれば、そんな余裕げな生活を送れるはずがない、と。しかし、保坂氏が『途方に暮れて、人生論』で疑問を投げかけているのは(というか、はっきりと「攻撃」を仕掛けているのは)、多くの人に無意識のうちに共有されている、そのような思い込みであり、価値観であると思う。
しかし、資本主義的な社会というのは、勤勉や改革(による自己実現)を美徳とするような、そのような思い込みや価値観によって支えられてるところがあり(つまり、そのような価値観は多くの人の内面の奥深くに埋め込まれていて、それは、資本主義やネオリベに抗するとか言っている人たちも同じで)、だから、そのような価値観への疑問や攻撃は、多くの人にとって、とても「気に障る」ことなのではないだろうか。勤勉さや、絶えざる自己改革を良しとするような価値観は、無為な時間としてある「人生そのもの」から目を逸らすために作用しているのであり、その価値観を根本的に見直すためにこそ「教養」が必要なのだと、保坂氏は繰り返し述べている。勿論、保坂氏のどの小説からも、この主張は一貫して感じられるのだが、このエッセイ集では、それが(つまり、保坂氏の最も危険な、人をいらだたせもする側面が)はっきりと、露に語られている、という印象がある。だから、もしかすると、保坂氏の小説の、なにも起こらない心地よい時間がだらだらとつづいている、という側面を好んでいる読者でさえ何割かは、このエッセイ集については強い反発を感じたりもするのではないか、とも思う。しかし保坂氏は、まさにそのような読者に向けてこそ、この本を書いたのではないか、とも感じる。
この本は、おそらく保坂氏の本では珍しく、「誰か」に向けて、直接「語りかける」という調子が強く感じられる本だと思う。その「誰か」とは、マーケティングによって把捉可能な特定の層というのとはまったく別ものではあろうが、しかしここで保坂氏が、自分の小説の「読者」になるような人、というのを意識しているようには思われる。保坂氏は、自分の小説を好むような人ならば、ここに書かれていることを理解し考えるような「下地」はあるはずだ、と思っていて、それを前提に、つまり、無理解や揚げ足取り的な反論に対する防御をほとんどとらずに、きわめて率直かつ無防備に書いているように感じられる。ある「下地」を共有している人に向けた、だからこそ反発されることも恐れずに言える、率直な発言、という感触が、この本からは感じられる。そして、そのような言い方をすることこそが、「あたしは生まれる時代を間違った」と感じているような人に対する、最も説得力をもった励ましに成り得る、と考えているのではないかと感じられる。(この本のもととなった、Web草思での連載をその都度読みながら、やっぱ保坂和志って危険な人なんだよなあ、と思っていた。保坂氏の脱-社会性というか、非-社会性みたいなものがモロに出ている、という感じがしていたのだった。)