●二、三日前から保坂和志『小説の誕生』を読んでいる。この本のもとになっている「小説をめぐって」はずっと連載の段階で欠かさず読んでいるのだけど、例えば、この本に引用されたり触れられたりしている本と、自分の読書の傾向とを比べて考えてみるだけで、ぼくは自分がこの連載からどれだけ影響を受けているかを改めて思い知らされる。クロソウスキーなど、保坂氏による示唆がなければ、読もうと思うことはなかっただろうけど、今は面白くて仕方がない。(クロソウスキーを読むようになってちょうど一年くらいになるのだけど、はじめは全く手に負えないという感じだったのが、ようやく面白く読めるようになってきた、というところだけど。でも、まだクロソウスキーの小説はどう読んだらよいかよく分らないのだけど。)
●この本の一番最初に載っている「第二期のために書きとめて壁にピンで止めたメモのようなもの」はすごく好きな文章で、「新潮」に掲載されたのを読んだ時、そこだけ切り離して、ノートに挟んで持ち歩いて繰り返し読んだ。《ところが芸術にはもっと頑固なところがある。それは「しなやか」の対極にある何かで、多数の人たちに開かれているわけではない。あるいは本当は芸術こそが最も無防備にすべての人に向かって開かれているのだが、それが無防備でありすぎるために少数の人しか近づかないと言えばいいか。》《...芸術はしかるべき道筋さえ与えられればほとんどすべての人がそれに対して何かを感じることができる。これは夢物語でも何でもなく、接近の仕方を時間をかけて伝えていけば人は必ず芸術から何かを感じることが出来る。しかしその筋道をつけることが難しいのだが....。不可能というわけでは全然ない。》ぼくはここに書かれていることを、他人の作品に触れる時にも、自分の作品について考える時にも、常に気になることとして、何度も立ち戻って意識する。つまそれは、(それがメジャーなものであろうとマイナーな、マニアックなものであろうと)既成の、共有された文脈にのっかることの伝達効率の良さ(あるいは、文脈にのって考えることの効率性)に頼ってしまいすぎてはいないか、ということだ。芸術の自律性があり得るとしたら、それは無防備であることによってのはずで、無防備であるためには、全てを一から立ち上げる必要がある。それは全てを自分一人の力でやらなければならないということではなくて(そんなことは絶対に無理だ)、それぞれの人がそれぞれに異なった(そこへと近づくための)「しかるべき道筋」を自分の手で探ってゆくしかないということで、保坂氏の言う「(芸術のもつ)頑固さ」とは、それぞれに異なる「固有の身体」をもつ一人一人の人にとって、自分にとっての「しかるべき道筋」はそういくつもあるわけではない、ということだろう。共有された文脈、共有された問題、共有されたネタ、共有された外傷において考えるのではなく、あくまで自身の症候の場で考えるということは、一見コミュニケーションの拒絶のようにみえるが、しかしそれこそが最も無防備なコミュニケーションの可能性を開くはずだ、と。
●そしてそんなことは当然の前提だとでもいうように、以降の保坂氏の思考は独自の展開で進んでゆく。独自の展開というのは、保坂氏以外では考えられないような独創的なものという意味ではなくて、既にある筋道や配置のなかでの適度な「落としどころ」への配慮なしで、引用される本に導かれたり助けられたりしつつ、保坂氏自身の身体を使って考えたり書いたりすることの力だけによって考えをすすめてゆくということだ。だからこの本は、普通に読んですんなり納得できるような筋道では書かれていない。むしろ、抵抗や疑問や反発を感じつつ(その都度いちいちそれに引っかかって立ち止まって咀嚼しつつ)、その厚い壁を切り分けながら読み進めてゆくしかないような本だと思う。(でもそれは、作者であり登場人物でもある「保坂和志」への一定の信頼や敬意という前提があってこそ可能なのかも知れない。)ぼくは、毎回連載を読んで、啓発され、刺激されるのと同時に、この人は一体どこへ行こうとしているのか、ここまで行っちゃうのはどうなのか、これはどういうことなのか、という不安と危うさと疑念とをも感じていて、その回によって、すごく面白いと思ったり、うーん微妙だと思ったりしながら追いかけている。ただ、連載で一回ずつ読むのではなく、何章分かをつづけて読んでゆくと、保坂氏の思考が、決して直線的にではないのだけど、進んでゆくというのか、深まってゆくというのか、煮詰まってゆくというのか、密になってゆくというのか、そのどれもが適当な言い方ではないのだけど、書き続けられる過程で何らかの質的な変化が生じていることが感じられてくる。だから、この本は、はじめから順番に通して読むという読み方をするのが良いのだろうと思った。でもそれは、保坂氏の「小説」を読むようにはすんなりと出来ることではない。でも、いわゆる「小説」のようにはすんなり読めないということが(あの、独特な心地よい保坂和志の小説のリズムに制御されていないことが)、この本が、このような形で書かれていることの意味の一つなのだろうと思う。
●今日の天気(06/10/03)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/tenki1003.html