●昨日の日記で、保坂和志『小説の誕生』について、《はじめから順番に通して読む》のが良いと思うと書いたのだけど、ぼくは実際にはそのようには読んでいなかった。小説などを読む時は別だけど、ぼくは、「難しそうな」本を読む時は、パラパラと眺めてみて、入り込めそうな感じがする部分からとりあえず読み始めて、そのような部分が二、三カ所みつかれば、そこを起点にして、そこから前後へとじわじわと攻め込み、浸食するように読み進めてゆく。そういう風に読むことで、手強い本にも入り込んでゆけるし、少なくとも、最初の数ページを読んだだけで挫折、ということにはならなくなる。『小説の誕生』も、そういう風に読んでいたのだけど、そういう風に読みながら、これは《はじめから順番に通して読む》べき本だなあ、と感じたのだった。で、今日、改めてはじめから読み始めて、最初の三分の一くらいまで読んだ。
●そのように読んだことの効果というより、既に、書かれていることをある程度把握していて、その世界にある程度親しみ、初読で論旨を追いかけてゆく時よりは余裕をもって読むことが出来ることの効果なのだろうとは思うけど、「引用されている文章」に、特にじっくりと入り込んで読むことが出来た。連載で読んでいる時には、どうしても、「保坂和志の言っていること」を読もうとし、「保坂和志の記述のリズム」にのって読んでいるので、ちゃんと読まなくてはいけないと思いつつも、どうしても引用部分の読み方が粗くなってしまう傾向がある。でも今日は、「保坂和志が言っていること」よりむしろ、「引用されている文章そのものの面白さ」に引っ張られるようにして読んだ。そのためなのか、「保坂和志の言っていること」の方でも、妙に細かいところが目について、それも面白かった。例えば、ボルヘスの『円環の廃墟』のある部分を引用した後、その部分を読むといつも『ポゼッション』という映画を思い出すと書き、《妄想の力だけで怪物を作るというのが「ヨーロッパだなあ」と思い、それ以上の言葉が出てこない。私が「ヨーロッパ」ということを考えるようになったのは、小説でも映画でもなく競馬に熱中していたときだったのだが、そこで感じていたものが『ポゼッション』の怪物に結実しているような気がしたのだ》、と書いていて、ボルヘス、『ホゼッション』、競馬、の重なりのなかからみえてくる「ヨーロッパ」の像というのが面白い。
●圧巻なのは、「外にある世界と自分の内にあること」という章の後半をほとんどまるまる使ってルーセルの『ロクス・ソルス』を引用、紹介しているところで、この部分は圧倒的に面白い。「保坂和志が言っていること」が面白いというよりも、『ロクス・ソルス』そのものが凄く面白いのだ。ここで保坂氏は、小説の形式性というのは、内容と切り離せなくて、書かれていることそのものが充実していてはじめて意味をもつのだ、というようなことを書いているのだけど、別にそのことを主張したくて『ロクス・ソルス』が引用されているわけではなくて、ただ、『ロクス・ソルス』がやたらと面白くて、『ロクス・ソルス』はこんなに面白いのだ、ということが言いたいために(その面白さをなるべく正確に伝えようとするために)、延々と紹介され、引用されている、というところが面白い。
●散歩(06/10/03)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sanpo1003.html