小説をめぐって

●「新潮」は毎月送って頂いているのだが、届くとまず目次を眺めて今月はどんなものが載っているのか確認した後、保坂和志の「小説をめぐって」を最初に読む。この保坂氏の連載は、毎月一定量のものを少しずつ読み続けるというような、連載であることに意味があるような連載で、それは一冊の本になったものを読むということとは違った読み方を可能にしてくれる。それはつまり、終わりが確定されていないもの、つねに途上であるものを途上であるまま読むということであり、時に充実していたり、時にやや弛緩していたりするものを、自分自身も生きて、普通に生活している時間(それは同様に時に充実し、時に弛緩していて、そして、保坂氏についての興味も、時に強くなり、時に薄れていたりもする)の中で読むということだろうと思う。思えば、保坂氏の小説をはじめて読んだ頃に思っていたのは、保坂氏には、文芸誌の片隅に載っている、いつ終わるとも知れないだらだらとつづくような小説を書いてほしいという感想で、しかしそれはやはり「小説」という形では難しいようで、「小説」ではなくて「小説をめぐって」という形で実現したとも考えられるのだった。(例えば『カンバセイション・ピース』も、「新潮?の連載でリアルタイムで読んでいたのだが、それを読むときははじめから、遠からず「終わり」があり、完結するだろうというものとして、つまりあるフレームが「あるのだろう」ということを前提にして読んでいた。対して、「小説をめぐって」は、このままいつまでも続きそうな感じで、例え、来月でいきなり終わってしまっても、それは「完結」とは違って、たんに中断という感じだろう。やはり、小説=作品というものは、日常の時間を超えた、ある特異な(フレーム化された)集中や濃度、覚醒といったものを必要とするということなのだろうか。)もう18回にもなるというこの連載では、同じような事柄がくり返しかかれることもあっただろうし、理屈で考えれば矛盾したことも書かれているだろう。ぼく自身も、ずっとつづけて読んではいても、その内容のいちいちを全て憶えているわけではないし、毎月、その都度読んでは勇気づけられたり、刺激されたり、違和感を感じたり(あるいは退屈したりも)しつつ、多分多くのことを忘れ、そしていくつかのことは、この連載で読んで知った(刺激された)ということを忘れてしまって、あたかも自発的に考えたかのようにして、ずっと自分なりに考えつづけたりもしているのだろう。この連載は、理論的に積み重ねられたり展開されていたりするのではなく、その時々の出来事や気分などが多分に反映されつつ、その都度、その都度で書かれているようにみえるが、しかしそれは、迂回のための迂回、方法的な横道への(アミダクジ的な)逸脱などがあるのではなく、ある一定の目指される方向性が感じられるし、そこへ向かって、進んで行く、というよりも、徐々に深まってゆくという感じがある。それは、今月号で触れられている柴崎友香の小説で、新入社員が日常的な業務の反復の時間のなかで、ある時ふと「馴れ」てきて周囲がよく見えるようになる、というのと同じような意味で、迂回や些細な細部とも思えるかもしれない記述の執拗な反復のなか(それを保坂氏は「時間」だと書いている)でしか得られない、ある「深まり」なのだと思われる。
●それにしても今月の「小説をめぐって」はとても面白い。書かれていること一つ一つが充実していて、強い印象が与えられるのと同時に、それらの書かれている事柄同士の関係が、きれいに要約出来るような形ではなかなか見いだせないのだが、しかしそれでも、そこには何かしらの繋がりがあるように感じられる。前半の、パソコンの故障に対するサポート担当者の対応への苛立ちから、自身の義憤や執着心のような感情を観察し、それを町田康阿部和重の小説へと関連づけてゆく(阿部和重についての言及は阿部和重論を書くどんな批評家よりもずっとシャープだと思う)部分は、現代小説への批判とでも言える部分で、それが、高校時代のアキちゃんのエピソードを挟んで場面が一変して、保坂氏が目指すべきものだと考えているものについての考察へと進む、というのが大雑把な構成だと言えると思うけど、しかし、記述の流れはきれいには流れず、ひとつひとつの事柄がごつごつと引っかかり、それぞれの場面で記述のながれとは別の方向へと考えが誘発され、しかし(ぼくの頭のなかに勝手に浮かんだ)それらも、保坂氏が書こうとしていることと決して無関係ではないと思われるのだった。
●カール・アインシュタインという人の書いた『黒人彫刻』という本から引用された部分と、荒川修作の発言の引用(『生命の建築』)の部分がぼくにはとても気になって、この二つの引用部分にはとても重要な繋がりがあるように思えるのだが、この点についてはもっと考えてみたい。
《ところで、しばしば黒人彫刻はプロポーションが悪いと非難される。プロポーションが悪くなるのはなぜかといえば、空間の視覚的非連続性がフォルムの明晰化の問題へと移行するため、すなわち彫塑性を重視して、造形表現の異なる諸パーツが配列されるためである。》(『黒人彫刻』より。ここで「彫塑性」という言葉が意味していることが、この引用部分だけでは、いまひとつよく分からないのだが、おそらく、ここで言われているプロポーションの良さとは、視覚的に捉えることのできるなめらかな空間の連続性のことで、対してフォルムは、ひとつの視点によるパースペクティブに納めることのできない、空間の、把捉し難い超越的な統一性のようなもののことだと考えられ、彫塑性は、後者のフォルムに関係すると思われる。)
《例えば、自分に関係のある近所の環境は私の延長であり、その延長は私のようなかたちをしていないけれども、その同じ現象を歩むことができれば、私といわれている肉体がこのまま消えていったとしても、それほど恐怖に思わないでしょう。最終的に、肉体というものは自分のまわりに違う環境によって物質的に表現される。》(『生命の建築』より。この引用部分は荒川という存在がやろうとしていることを的確に表現していると思う。つまり荒川にとって「死なない」ということはこういうことなのだ。荒川の作品は、一見、ノスタルジーなどとは無縁の外観をしているが、あれは荒川にとって何よりも「懐かしいもの」であり、荒川自身の肉体=身体を表現しているのだと思う。)
この二つがどう関係するのかは、並べてみただけでは全然分からないけども。