●家にいると、体調が悪いとかなんとか理由をつけて、ついついだらけてしまうので、喫茶店を何軒かはしごして、「やらなければならないこと」をする。おかげで、かなりはかどったが、コーヒーの飲み過ぎで胸がやける。「やらなければならないこと」をしていると、みるみると時間が経ち、知らぬ間に外は暗くなっている。すっかり暗くなり、家に帰る途中、踏切で立ち止まる。踏切を走り抜ける電車のオレンジ色の車体は、線路脇の建物の窓からの灯りをぼんやりと反射している。明るい昼間に踏切を抜けて行く電車を見ると、その圧倒的な重量感に威圧されるような感じを受けるのだが、暗くなった後、ぼんやりとした照明に照らし出される電車の車体は、重量感(と色彩)は後退し、その表面の鉄の質感がやけに生々しく浮かび上がって感じられる。どちらにしても、踏切から見る電車は、ホームで見る電車となぜこんなに印象が異なるのだろうか。
●「やらなければならないこと」をしつつ、ぼんやりと思ったのだが、例えば、古典的な名作と言われるようなものだったら、世界中に読者はたくさんいるし、専門の研究者さえ無数に存在するのだから、それを読む「読者」としてのぼくの比重というか、責任は極めて軽く、かなり自由に、気楽に、自分勝手にそれ読むことが許されていると感じられるのだが、もし、そのテキストの読者が、それを書いた人を除いたらぼくだけかもしれないなどということになれば、「読者」としてのぼくの責任はとても重たいものとなる。もしぼくが、そこに描かれていることをきちんと読み取って受け止める(例えそれを「最悪だ」と判定するにしても)ことができないならば、そこに込められた思いというか怨念というか、可能性のようなものは、受け止めるものを得ることが出来ずに、亡霊としてさまよい、そのまま消えてしまうかもしれないのだ。(そこまで大げさではなくても、例えば、現代美術のそれほど有名ではない作家の展覧会などは、せいぜい観客は三百人くらいがいいところで、だとするとそれを観た観客ひとりとしての自分の「重さ」というのは嫌でも感じられてしまうし、嫌いな作品でもそうそういい加減には観られない。)勿論、だからといってぼくなどに何が出来るわけでもないのだが、ただ、受け止めることだけは出来るのかもしれないのだった。
●昨日書いた、保坂和志『小説をめぐって』(十八)で触れられていた、カール・アインシュタインの『黒人彫刻』と『ベビュカン』という本を、未知谷という出版社のサイトから購入したのだが、『ベビュカン』というタイトルはどこかで聞き覚えがあるような気がして仕方なかったのだけど、それは、アーサー・ランサムの小説に出てくる《牛肉をかわかして、果実や脂肪もつきまぜ、パンのように固めたもの》(ペミカン)のことだったと思い至った。