『よつばと!』(あずまきよひこ)(1)、(2)を読んだ

●『よつばと!』(あずまきよひこ)(1)、(2)を読んだ。すごく良く出来ていて驚いた。何が良く出来ているかと言えば、読者に無駄な「心掛かり」を一切感じさせないように、徹底して摩擦を回避させる技術的な洗練が凄いのだ。例えば『ドラえもん』ですら、のび太ジャイアンスネ夫との関係の緊張があるし、しずかちゃんを巡る出来杉くんとの闘争もあるし、宿題をやりなさいとか、買い物に言ってきなさいとか口うるさく言う親との軋轢も描き込まれている。と言うか、『ドラえもん』のような、淡々と安定的に進行するような作品ですら、そのような緊張や摩擦があるからこそ、それを解消しようとする「物語」を動かすことが出来るのだ。しかし『よつばと!』では、それぞれのキャラクターの性格や関係は描かれるが、その間に緊張や摩擦が生じることがほとんどない。(摩擦を軽減しようとすると、『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』のような「動かない」、非活性的な話になってしまう。『ちびまる子ちゃん』には、隠されたシニカルな悪意が含まれているのだけど。)緊張や摩擦といった不均衡状態をつくらずに作品が生き生きと動き出すのは、主人公の「よつば」という無垢な(つまり、場違いな)キャラクターによるだろう。(大島弓子の『いちご物語』などが想起されるが、しかし大島弓子においても、作品の「意味」はその無垢なキャラクターの行動が周囲との間に生む摩擦によって生じる。)おそらく、『よつばと!』においては、無垢なキャラクターは「よつば」一人ではなく、全てのキャラクターが無垢というか、自足していて、他者に対する悪意や秘密や下心を一切もたない(もっているとは感じさせない)からだろうと思う。性質や資質のみをもち、内面をもたない(感じさせない)キャラクターたちのみで成立しているからこそ、摩擦や軋轢の気配さえ感じさせないことが可能なのだろう。例えば、母親が自分の複数いる娘に一人に対して、お前を生んだのは正解だったけど、姉さんを生んだのは失敗だった、などという発言をしても、その発言に一切重さが生じないというのは、かなりなことだと思う。キャラクターに内面がないなどと言っても、それを読んでいる読者は悪意も秘密も下心ももっているし、同じように悪意,秘密,下心をもっているであろう他者たちに囲まれて普段は生きているのだから、作中のキャラクターに対しても、そのちょっとした仕草や言動から必然的に内面に隠されたものの重みを読み取ってしまいがちなはずで、それを感じさせないことはいかに難しいことだろうか。だいたい、無垢な(場違いな)キャラクターの行動に触れる周囲の者たちは、自らの常識や下心を相対化せざるを得なくなり、そこに内面性が付加されやすいだろう。しかし『よつばと!』では、よつばが突飛な動きをすることに対して、まわりの人物はただ自らの性質や資質でのみ対応するので(反省したり、反発したり、考え込んだりしないので)、摩擦も軋轢も重さも生じず、ただ、リズムが変化し、動きが多様化するだけなのだ。だからそれを読む読者は心から安心し、自らが外界に対する時の武装を解いて、思いっきりのびのびと、その心地よさのなかを滑ってゆくことが出来る。『よつばと!』はだから、一見、現実世界のリアリティと触れ合うことがないようにもみえる。しかし、多くの人がこのような作品に惹かれているという一点において、現実世界との関係をもつだろう。
●無垢であること、天然であることは、決して「汚れがない」こと「無欲」であるということではなく、欲望のあり様が私と(私が属している社会と)異なる人ということだろう。つまり、そのような人とは「欲しいもの」を争うことがないから、利害関係が生じることがなく、だからその人に対して防御の姿勢をとる必要がない、ということだろう。人は、そういう人に対して、安心して優しい視線をなげかけることが出来る。だから逆に言えば、『よつばと!』に惹かれる読者は、決して『よつばと!』の登場人物(の一員)になることは出来ない。(その点が、例えば保坂和志の小説と最も異なる点だろう。保坂氏の小説の読者は、それを「好む」という一点において、既に幾分かはその小説世界内部の人物であり得る資格をもつだろう。)
よつばと!』の読者も、そしておそらくその作者も、決して『よつばと!』の世界の一員ではあり得ない。ぼくはこの作品を読みながらずっと、そのことに後ろめたさのようなものを感じつづけていた。つまり、読者も作者も、あまりにキャラクターを自分の都合に会わせて扱い、消費しすぎているのではないか。最初から、読者に対する媚態のみでできているようなキャラクターならば、その「媚態」そのものがキャラクター自身の欲望であるとも思えて(勿論、つくられたものであるキャラクター自身に固有の欲望などないのだが、しかし我々はキャラクターを半ば人のようなものだと思っているからこそ、それに惹かれたり、反発したりするのだから、そこにキャラクター固有の欲望や意識を読んでしまうのは必然だと思う)、その媚態を消費するのにそれほど後ろめたさか感じないのだが、まるで媚態とは無縁であるかのようにつくられたキャラクターを、悪意も下心ももった読者(や作者)が、媚態と無縁であることを媚態であるかのように消費するということに、抵抗を感じずにはいられない。まあ、そうは言っても、結構面白がって読んではいるのだけど。