●昨日観たアクラム・カーン+シディ・ラルビ・シェルカウイ「ゼロ度」で使われていたアントニー・ゴームリーのシリコン人形が、何故台座もなしに、普通に立つことが出来るのかが気になっている。足を肩幅くらいに広げているとはいえ、普通に考えてあの姿勢では立たないと思うのだけど。身体の上部を、内部をくり抜いて空洞にして軽くして、足の方に錘を入れて重くすれば立つかもしれないけど、舞台上での倒れ方を観ている限り、そんな操作をしているようには見えなかった。人形の姿勢が、やや腰を落とし気味で、上半身がちょっとだけ前傾しているように見えたので、その姿勢の微妙なバランスだけで立っているとしか考えられない。だとすれば、型をとる時に、微妙に姿勢をかえつつ、立つまで何度もやり直す、という風にして作られるのだろうか。
●たまたま観た『フリクリ』がとても面白かったのがきっかけで、一時、いろいろとアニメを観まくっていたのだけど、結局、『フリクリ』のように面白いものはほとんどなくて、その熱は冷めつつあるのだけど、『涼宮ハルヒの憂鬱』は、DVDで新しいのが出るたびになんとなく見続けている。面白いのかと言えば面白くはなくて、特に原作の第一作のところを過ぎて短編シリーズみたいな話になってくると、ぐだぐだになっているように思う。凝ってつくってあるのは分るけど、凝っているところが面白さに繋がってない。しかし、面白くないと思いつつも一度観はじめると惰性で観続けてしまうところが、ギャラクター物のシリーズの強みなのかもしれない。
DVDの六本目を観ていて思ったのは、いつのまにキョンがこんなに偉そうになってしまったのか、ということで、実質的にSOS団の実権をにぎっているのはキョンという状態になってしまっている。(長門ユキに命令したりしているし。)それだけでなく、ハルヒとの一対一の関係においても、何だがキョンの方が主導権を握りつつあるようにみえる。この『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品世界の設定そのものが、基本的にキョンのための、ひたすらキョンにとって都合の良い世界として組み立てられているのだから、少なくとも「表面的」には、キョンはずっと受動的なキャラでないと、作品世界の設定そのものが成り立たなくなるというか、あまりにもキョンによる強権的な世界になってしまうのではないだろうかと思うのだけど。(ただ古泉のみが、控えめながらキョンに突っ込みを入れられる唯一のキャラクターとして重要性を帯びつつある。)「ライブアライブ」ではハルヒのキャラそのものも揺らぎはじめているし。
ぼくは原作は二冊目の途中までしか読んでないけど、原作ではどうなっているのだろうか。あくまでキャラクター物として、ハルヒはハルヒ、キョンはキョンであることが揺るがないままで(「サザエさん」や「よつばと!」みたいに時間が止まったままで)つづいてゆくのか、それとも時間の経過による、ハルヒとキョンとの関係性の変化や、キャラの変化などが描かれているのだろうか。(シリーズ物としてつづけてゆくには、当然キャラは固定された方がよいのだろうし、おたく的読者はそのような安定を望むのだろうけど、ラノベの読者は、どこかで関係の変質が描かれることを望んでいるのではないだろうかという気がする。ここで、おたく的読者とラノベの読者との、近いけど微妙な差異があるように感じられる。というか、一人の読者のなかにも、おたく的欲望とラノベ的欲望とが、分裂して同時に存在するのだと思う。)