『マカロニほうれん荘』その他

●昨日読んだ『よつばと!』と、『さんさん録』(こちらはまだ読んでいない)は、新宿のジュンク堂のコミックのコーナーで買った。新宿ジュンク堂は何度も行っているけど、コミックのコーナーに足を踏み入れたのはじめてで、『マカロニほうれん荘』が(ぼく小学生の時から繰り返し読んで汚れてぽろぽろになったやつと同じデザイン、同じサイズで)全巻そろっていて驚いた。普段あまり足を踏み入れることのないコミックのコーナーに行ったのは、今ちょっと話題の別のマンガ家の作品を読んでみようかと思ったのだが、実際に手に取ってみるとあまり魅力的だとは思えなかったので、その場でなんとなく惹かれた上記の二作を買ってきたのだった。
●ところで、『マカロニほうれん荘』もまた(『よつばと!』と同様に)きわめて摩擦の少ない幸福な作品だった。確かに、トシちゃんとクマ先生の闘争があり、中年男性(女性)であるきんどーちゃんによるシニカルな視線があり、そうじくんと益田さんのカップルを嫉妬する中島さんの悪意があったりはする。しかしそれは基本的に幼稚で他愛のないものである。例えば『がきデカ』では、こまわり君と西条君との間には、より高い緊張関係があったし、純ちゃんのような女性キャラクターは、こまわり君による「性的な攻撃」に対して、高い警戒意識を持っていて、防衛的な姿勢をとっていた。つまり『がきデカ』の世界は、基本的に油断のならない危険な世界であり、何が起こるかわからないという緊張感のみなぎる世界である。人物は他者や世界に対して常に緊張したり警戒したりしていて、そのテンションがあるからこそそれが崩れて「滑稽さ」があらわれる。周囲の者は好き勝手に振る舞うこまわり君に対して緊張しているし、好き勝手に振る舞うこまわり君もまた、その周囲からの逆襲に対して緊張している。しかし『マカロニほうれん荘』の幼稚な遊戯的空間においては、人物たちはもっとリラックスしている。そうじくんは、トシちゃんやきんどーさんに巻き込まれて迷惑に感じつつも、最終的には自分もそれに乗って一緒に遊んでしまう。(そうじくんによる「否定」は、いわゆるお約束の「ツッコミ」程度のものであり、それもしばしば「ノリツッコミ」である。)それに、基本的に「美しい男性」であるトシちゃんやそうじくんは、女性を性的な対象とするだけでなく、女性から性的な対象とされ、むしろ翻弄され、攻撃される側となる。ここには、男女間の性的な闘争はみられず、「お医者さんごっこ」的な、幼稚な(幻想的で幸福な)性的遊戯があるばかりだろう。(こまわり君は女性から性的な対象となることがなく、だから彼の欲望は常に対立や摩擦を引き起こすか、空回りするしかない。だから彼は、逆襲を恐れつつも、常に周囲に対して攻撃をしかけつづけなければならない。ペニスと睾丸のかたちをしたこまわり君の顔は、この世界のなかでは決して居場所を持たない欲望を象徴するものだろう。それが『がきデカ』の基本的世界観であろう。確かに西条君は美少年であるが、彼もまた「仮面を被った=ある程度社会化された、こまわり君」であり、つまり、西条君とこまわり君の緊張関係は、抑圧するものと抑圧されるものとの緊張関係であるように思われる。『がきデカ』の女性キャラクターが皆、どこかミステリアスな魅力をもつのは、西条君とこまわり君の緊張関係という「こちら側」の外にいて、常に、欲望の対象、攻撃の対象として「あちら側」に置かれているからではないか。余談だが、こう考えると『がきデカ』の世界はけっこう阿部和重の世界に近い。)『マカロニ』の世界の対立は、一緒に遊ぶための役割的な対立に過ぎず、つまり本当は(ハードな)対立がない。(ちなみに、『マカロニ』以上に幼稚で遊戯的で、つまり対立が徹底して解体されているのと同時に、『がきデカ』以上に高い緊張がみなぎっているのが、楳図かずおの『まことちゃん』の世界だと思われるが、『まことちゃん』は本当に凄いのだが、そのあまりのアナーキーさのため、ギャグマンガとしては単調になってしまうきらいがあるように思う。)まあ、『マカロニ』的世界の幼稚で幸福な幻想は、あくまで男性の幻想でしかないのかもしれないけど。(というか、今までの記述の全てが、男性の側からの一方的な視線でしか語られていないのだけど。)
鴨川つばめの世界は、(男の)子供たちの欲望がどこまでも暴走してゆく永井豪の(『ハレンチ学園』のような)世界に近い。しかし、永井豪においては、例えば『ススムちゃん大ショック』に典型的にみられるように、アナーキーな遊戯空間を支えているシステム(つまりそれが「親」なのだが)の安定性に対する強い不安があり、それによって、初期のギャグマンガから、カタストロフィー的なSF作品へと発展してゆく力を得ているように思える。対して鴨川つばめにおいては、そのような不安はあまり感じられず、(あの、アナーキーなイメージの接続を可能にする)世界の基底での安定性は、例えば、ほうれん荘の女主人であるかおりさんのような、強くて美しい年上の女性に対する信頼(依存)によって成立しているように思う。