●当たり前のことだが、作品の展示が終わったからといって、作品がなくなるわけではないし、何かが解決するわけでも、終了するわけでもない。画家の仕事は、作品を「観せる」ことではなく、その質を「つくる」ことにある。作品を展示するというのは、ある意味、よそ行きの顔をつくるようなものでもあり、作品が少しでも良くみえるように、展示作品の配置を考えたり、照明を工夫したりする。それに、ギャラリーという空間は、作品が「それらしく見える」ように出来ている。展示が終わると、作品はよそ行きの顔をやめ、バラバラになり、それこそ、個々の作品の強さだけが頼りの本来の状態にもどってゆく。例えば、誰かに買われた作品が、その人の部屋に持ち込まれた時、その時あらためて、その作品の質が問われるだろう。ギャラリーという「絵を観る」文脈をもつ場所から切り離されて、それぞれが生活する空間に改めて置き直される。ぼくは、その人の部屋の様子を前もって想定して作品をつくっているわけではないし、その部屋へ行って展示の仕方を指示するわけでもない。そのような場所でも、ある一定の「質」を維持出来るのだろうか。ぼくの作品は、それに充分な「質」を実現できているのだろうか。持ち帰ってみたらがっかり、ということにはならないだろうか。さらに、展覧会で作品を観るということは一過性のものであり、じっくり観るといったってせいぜい一時間かそこらだろうが、しかし、もし部屋に飾られるとしたら(箱に入ったまま倉庫行き、ということもあり得るけど)、毎日じっくり観るということはないだろうけど、日々、目の隅にとまったりはするだろう。(あるいは、折に触れて何度か、箱から出されて眺められるのかもしれない。)そのような、繰り返し、長い時間観られつづけることに耐えうる「質」を、ぼくの作品はもっているのだろうか。簡単に底が割れたり、簡単に飽きられたりしないだろうか。作品の質はそういうところでこそ問われるのであり、そういうところで耐えられる質のみが信用できる。
●また、ぼくの作品の展示を観た人が、その後の生活のなかで、作品を観たという記憶や印象をどの程度保持していてくれるのだろうか。ぼくの作品を観た帰りに、何か普段と風景が違ってみえたりしたのだろうか。あるいは、すっかり忘れていても、何かのおりにふと、ぼくの作品の印象がよみがえったりすることがあるのだろうか。作品の質とは、そういうところで問われるのだと思う。
●上田和彦さん(http://d.hatena.ne.jp/uedakazuhiko/20060508/1147078351)が、A-thingsの展示について書いて下さいました。