こうの史代

こうの史代の絵が、どうしても「好き」にはなれないところがあるとしたら、おそらく線があまり美しくないからだと思う。この人の引く線の、ちょっとした癖の感じは、下手をすると滝田ゆう的な叙情性を纏い易い。それが悪いとは言わないが、それはどうしても古い感じになってしまう(過度なノスタルジーは魅力でもあり、危険でもあろう)。しかしそれでも、こうの史代の絵が決して古くさいものではなく感じられるのは(そして、線は決して美しくないのに、絵として汚くならないのは)、何といっても紙の白に対する感覚の鋭敏さにあるように思う。スクリーントーンを使わないだけでなく、ベタ塗りの部分もきわめて少ないこうの氏の絵は、全体としてかなり「白い」のだが、決してスカスカにはならない充実度がある。こうの氏は、陰影のトーンをつくる時、フリーハンドによる斜線を重ねる。スクリーントーンのつくる階調は、一見豊かにみえても、それは規則的なパターンの重なりに過ぎないのだが、手によって引かれた線は、一本一本が皆微妙に異なり、その微かな異なりが、画面に微妙な振動を生む。そして、こうの氏の重ねる斜線はかなり荒く、線と線との間に「紙の白」を多く含む。一見荒く刻まれたように見えるその線はしかし、一本ごとに微妙に異なる呼吸をもつだけでなく、いつも、線と線との間が含む「白」の量を繊細に調整しつつ引かれているように見える。線ごとに異なる呼吸があり、線と線との間が含む「白」の量も、その場所ごとに皆異なっている。つまりこうの氏の絵において、ある領域(面積)の調子が一挙にベタッと決定されることはなく、見開きのページのなかのあらゆる場所が、異なる質をもつように意識して描かれていると言える。線によって囲まれ、あるいは線と線とに挟まれる面積によって、そして、その面積を挟む線の呼吸や表情によって、同じ紙の白に、異なった表情が生まれる。これによって、こうの氏の作品は、コミックとしては異例なくらい、一つのコマ、一つの見開きベージに、長い時間じっくりと視線を留まらせることを可能にする。しかし、一枚絵ではないコミックにおいて、あまり長い時間一つの場所に視線を留まらせるのは動きを失い、単調となる危険と裏腹でもある。そこにもまた「紙の白」が作用する。紙の白は、コマや枠線を超えて見開きのページ全体に通底しているので、そしてまた次のページにもつづいてもいるので、そこには連続的な空気が流れ、コマを孤立させない。(背景を丁寧に書き込む漫画家においては、しばしば、細密描写された風景と、漫画的に記号化されたキャラクターが、一つの画面のなかで分離してしまいがちだと思うのたのが、こうの氏の場合「紙の白」と線の関係が常に意識されているので、それがない。)視線は、一つのページ(見開き)に長く留まり、線と線との間からじわじわ滲み出して来る「白」の表情を味わい、しかし視線の動きは固まってしまうことがない。このような絵の魅力が、例えば「道」のような特異なキャラクターに説得力を与えている一因でもあろう。
●『長い道』の道は、本来ならばそのリズムを周囲と同調させることの出来ない人物であるだろう。しかしこうの史代の作品のずうずうしい強さとは、そのような彼女に、「この世の中」において居るべき場所を与えてしまうところにある。彼女は、自分のペースを全く崩さないまま(この世の中とリズムを同期させないまま)、この世の中に居場所を得る。『長い道』に描き込まれているのは、道のそのような生における奇跡的な技芸と言えるのではないだろうか。例えば、『バナナブレッドのプディング』の衣良もまた、この世の中の他人たちとリズムを同期させることの出来ない人物であろう。彼女の善良な友人たちは、そんな彼女と「この世界」をなんとか媒介し、調停させるために懸命になる。彼女自身もまた、「嘘の力」によって「この世の中」となんとか調停し、関係しようと試みる。そこで起こる様々な軋轢が、作品となっている。だが大島弓子においては、孤独な個人と世界とはついに調停されることはなく、常に緊張が孕まれ、しばしば破綻に至る過酷な関係が描き出される。もとより、衣良が真に望む他者(愛)とは、御茶屋峠やさえ子のように、衣良と世界との関係を取り持とうとする親切な他者ではなく、衣良が庭の薔薇に話しかける言葉のような、ほとんどノイズのような振動を、それとしてそのまま受け入れてくれるような存在であろう。そしてそのような存在は、作中世界においては(衣良の姉を除いては)存在せず、その振動を受け取り、受け入れることが出来る位置にいるのは、ただ「読者」のみだろう。(樫村晴香が、衣良の求める愛が、作品という振る舞いと重なる、というのは、このような意味だとぼくは思う。つまり衣良の求める他者=愛は、作品の外にいる読者の視線によってのみ受け取られ得る。)対して、『長い道』の道は、自らと世界とを媒介する存在であると同時に、自らの発するノイズのような振動を受け入れてくれる他者でもある存在を、作中にさらっと見つけ出してしまうのだ。見つけ出してしまう、と言うより、作り出してしまう、と言った方が正確かもしれない。この素晴らしいずうずうしさには、見習うべき点が多いように思う。