こうの史代『さんさん録』(1)、『長い道』

こうの史代さんさん録』(1)、『長い道』を読んだ。
昔、高校生の頃流行っていた「うる星やつら」を観て(ぼくが知ってるのはアニメのみで、原作のコミックは読んだことがない)、ラムちゃんは徹底的に男性にとって都合のよいファンタジーとしてつくられたキャラクターなのだと思っていたのだが、今はむしろその逆で、あたるこそが、ラムちゃんにとって徹底して都合の良い男なのではないかと思っている。軽薄だが明るい性格で、いろんな女の子に気を引かれてドキドキさせるけど、モテるわけではないのでそんなに危険ではなく、小さな嘘は沢山つくけど基本的には善良であり、そして何よりも、何だかんだ言っても、ラムちやんによる拘束を受け入れており、その拘束を喜んでいるような人物にみえるからだ。ここには下手をすると、古くさい演歌的世界、男は外で適当に遊んでいても、結局私の子供のようなもので、掌で遊んでいるようなもので、結局は私のところに帰ってくるのだ、というような世界と紙一重のものがある。
こうの史代のマンガを読んでいると、そこに登場する女性のあまりのやさしさ、つつましさにたじろぎ、時に不信感さえもおぼえる。『さんさん録』においては、あらかじめ死んでいることで、女性は作品世界全体を包み込むほどになり、残された夫の行動のあらゆる場面で、その傍らに存在し、あらゆる場面でテキストを通して語りかけてくる。『さんさん録』では、主人公の死んだ妻だけでなく、息子の嫁、息子を引き抜こうとしている女性など(孫娘を除いて)全ての女性キャラクターが過度に聡明であり、やさしくもある。というか、このマンガに出てくる女性は皆、主人公の死んだ妻と同一人物であり、生まれ変わりであるようにさえ思える。
さんさん録』を読んで思い出したのが、大島弓子の『八月に生まれる子供』だった。男女は逆転しているが、どちらも、主人公は周囲の時間の流れと自身における時間の流れが決して一致しないことによって孤独である。そしてその孤独の救いとなるのが、異性からのやさしさに満ちた視線である。『八月に生まれる子供』においては、決してやって来ることのない、やって来る見込みのない主人公をそれでもなお待ち続ける男の子の存在が(その、非現実的なまでのやさしいまなざしが)、(主人公とその男の子とが待ち合わせ場所で出会うこと、シンクロすること決してないにしても)主人公の孤独な生をぎりぎりのところで支えている。こうの史代においては、大島弓子のように、主人公は世界の過酷さに直面するのではなく、もっとまったりしている。主人公の妻は、既に死んでしまっていることによって、主人公の前に現前することはないが、そのことでかえって現実にはあり得ないほどのおだやかなやさしさを獲得し、常に主人公のまわりに漂い、その都度テキストを通して主人公を助けるだろう。大島弓子の主人公が常に徹底して孤独であり、例え男の子の視線によって支えられていたとしても、それによって周囲のリズムとシンクロが可能になるけでもないし、視線を注ぎつづけてくれる男の子と出会うことが出来るわけでもない(男の子は主人公を「ヒーバーちゃん(曾婆ちゃん)」としてしか認識しない)のに対し、こうの史代のやさしい女性登場人物たちは、そのやさしさと賢明さによって、主人公と周囲のリズムをシンクロさせるための媒介として機能する。やさしい女性たちの存在によって、主人公は少しずつ周囲と触れ合うための、周囲のリズムとシンクロするための技法を獲得してゆく。
しかし、この過度なまでのやさしさは、一体何処からやってくるのか。もしこれが、たんに「作品の都合」からだけやってくるのだとしたら、作品はあまりに「虫のいい」話となり、嘘くさいものになってしまうだろう。そうではなくて、こうの史代の作品に強い説得力と抗い難い魅力があるとしたら、それは何故なのだろうか。
『長い道』の主人公のカップルの女性、道は、やさしさや慎ましさと言う言い方では捉えきれず、むしろ「気味が悪い」とさえ言えるほどだ。ずうずうしいほどに慎ましさに居直るこの女性キャラクターは、たんに受け身の存在というのではなく、受け身であることの貪欲な欲望のなまなましさがある。主体性を徹底して放棄するということによって、誰よりも強く自己主張している、と言うべきか。しかし、この人物は、いわゆる演歌的な受け身のずうずうしさを持つ女性像とは一線を画している。一体この人は何を考え、何を欲しているのか分からない、という気味悪さがあり、しかし同時に、確固とした揺るがしがたい自己(と言うより「資質」とでも言うべきもの)が芯あるように感じられるのだ。そして、揺るがしがたい強いものが核にありながらも、周囲の出来事や人物を繊細に感じ、それによって揺れ動く様も捉えられている。だから読者は、この人物に気味の悪さを感じつつも(そして、けっこう「胸焼け」しつつも)、好意をも感じざるを得ない。このような、素晴らしく、かつ恐ろしい、まったく特異なキャラクターを、少しずつ、四年の歳月をかけて育ててきた(このキャラクターはまさに連載され、描き続けられるなかで徐々に育っていったのだと思われる)ことが、こうの史代の描く別の女性キャラクターの裏側に貼り付いているからこそ、その過度なやさしさ、聡明さが、虫のよいもの、嘘くさいもの(「作品の都合」のみによって召還されたようなもの)にならないのではないだろうか。こうの史代は、なんともしたたかな作家だと思った。(この人の描く女性が皆同じなのと同様に、この人の描く男性も皆同じなようにも思えるのだが、それが単調さではなく、むしろ強さとしてあらわれているように思えるところが、この作家のずうずうしいまでの強さではないだろうか。)