池田雄一『カントの哲学』の第一章「シニシズムの完成者としてのカン

池田雄一『カントの哲学』の第一章「シニシズムの完成者としてのカント」を読んだ。そこにある「問題意識」の多くには深く納得させられたし、カントについての記述も興味深い。しかし、カントと現在のアクチュアルな問題と結びつける時の操作に、いくつか納得のいかない点があった。というか。その点について書いてみる。(以下の文章はまったく「批判」にはなってなくて、池田氏の本を読みつつ、勝手にいろいろ考えているだけ、というものになってしまっている。)
●違和感をもったのは主に二つの場面で、一つは、オウムと理性の構成的使用について書かれた部分、もう一つは、現在の機会原因主義としてのロマン主義的傾向について(つまり「あえて」について)書かれた部分だった。
●まず、(順序としては逆になるが)一章のなかでぼくが最も強く違和感をもった、ロマン主義(機会原因主義)を批判している箇所をみてみる。池田氏は、シュミットを引用しつつ、ロマン主義の特徴を、原因と結果の連鎖という因果関係を(恣意的に、つまり「あえて」)断ち切ることで、(機械論的な連鎖に組み込まれない「自由」をもった)「主体」の位置を守ることだとする。例えば、モーツァルトが、「オレンジを見たことによって「手を取り合おう」という二重唱を作曲するきっかけを得た」と言う時、「オレンジ」を見たことと、ある曲を「作曲する」ということの間には、通常考えられるような因果関係(「オレンジを見ることでそれを食べたくなった」のようなもの)は成立しないのだが、その繋がりのなさ(因果関係を超えるジャンプ)にこそ、モーツァルトの「主体(天才)」はある、というように。その他にも池田氏は、「太陽がまぶしすぎたから、通行人にダイブした」とか「世の中楽しすぎるから、みんなで練炭自殺」などの例を挙げている。つまり、「通行人にダイブ」の原因として(「原因」たることの出来ないたんなる「機会」としての)「太陽が眩しすぎた」が措定される時、その間にある断絶(因果関係のなさ)は、そこに「(ロマン主義的な)主体の自由」を確保するために、恣意性として( 「あえて」)選択されたものだとする。そのような態度は、些細な事柄に「あえて」こだわることで、「大いなる仮像」としての世界を「美的」なものとしてみようとする、ロマン主義的なイロニーと極めて近いものだと指摘する。そして、このようなロマン主義的な態度を必要とするのは、逆に、大いなる因果列の連鎖を俯瞰的に(冷静に)認識出来る主体であるとする。それは、自らがそのような因果列に組み込まれていることを自覚しているからこそ、「あえて」によって連鎖を断ち切り(否定性を導入し)、世界のなかに「偶有性」を確保する必要があるからだ、と。このような恣意的な接続(因果関係の否定)によって守られた主体は、世界を空虚な形式としての「美」として眺める(感受する)のみの、そこに受動的に埋め込まれているような「主体」でしかない。つまり、因果関係の「否定」はそれによって「主体」の場を守るが、そのような主体は、世界の進行そのものに、それへの「否定」を投げかけることができない、と。
(ちなみに、第一章はずっと、この「あえて」にこだわって展開されている。理性の構成的な使用をする人は(つまり、理念をリテラルに真であると信じられる人は)、その行動の結果(にあらわれる「否定」に突き当たること)によって否応もなく理念の仮像性に気づくだろう。そのような人はいわば「生きる批判哲学」のようなものだ。しかし、はじめから理念の仮像性を知っている人は、それが仮像であると知りつつ、「あえて」それが真であるかのように行動する。このような人に対して、その行動を批判することは困難である。理念の誤りを指摘しても、そんなことは既に知っていて、「あえて」やっているのだ、ということになるからだ、というような。このような問題意識は納得出来るのだが。)
そしてこのロマン主義への批判は、次のような問題意識に繋がる。《機会を原因と取り違える。この行為を拡大解釈してみよう。どのような事情であれ経済的な負け組になるのは、負けた側に原因がある。いかなる事情によるのであれ、警察による逮捕というのは、逮捕された側に責任がある。(略)そこでは、実際に原因を検証する行為、悟性的な判断は、最初から放棄されている。あの会社が倒産したのには、何か深刻な事情があったのではないか。あのお人好しが逮捕されるというのは、何か誤解があったのではないか。(略)このような疑問それ自身が成立しない。それどころかそのような疑問それ自身が美的でない、野暮でお人好しで無教養の者のする行為だと表象されてしまう。》ここまで読んで、なるほど、ロマン主義批判はそこに繋げたかったのか、と、ある程度は納得する。しかし、その「問題意識(危機意識)」は納得できるとしても、ここでの話(論)の展開の「繋げ方」には、微妙に納得出来ないものが残る。
●因果列の連鎖を認識する(知っている)主体だからこそ、「あえて」によって自由や偶有性を確保する必要がある、という主張は、一見説得力をもつようにみえる。池田氏は繰り返し、現代を生きる人間の運命のようなものとして、認識においては知っているが、行動においては無知、というような言葉を書き付けている。だけど実は、ロマン主義の必然性は、「自分が(行動のみならず認識に置いても)無知であることを知っている主体」にこそ現れるのではないかと、ぼくは思う。もし世界が、因果列の連鎖で出来ているとしても(つまり、必然によって全てがあらかじめ決定されていたとしても)、その因果列の全てを知ること(世界の全てを俯瞰すること)は私の能力(人間の理性の能力)を超えていて不可能であるのだから、すくなくとも「私」にとっての世界は常に、新たなものが到来し、予想のつかない展開が生まれつづける、決定されていない開かれたものとして現れるしかない、と。(つまり、「もの自体」は、「否定性」としてというよりも、「(事前には)予想がつかない何か」という形で現れる。)我々が知りうる因果列は、世界の全ての因果の束のごく一部でしかないのだから、我々が知っている因果関係(原因と結果)に、全ての事柄が従うとは限らない。だから、ロマン主義的な因果関係の切断は、必ずしも「あえて」によってアイロニカルな主体の場を確保するためのものではないのではないだろうか。アイロニカルにではなくむしろリテラルに、原因-結果という強く単線的な因果関係が成立し得ないことを「知っている」ということなのではないか。
●ちょっと角度を変えて考えてみる。例えば、人が実際にオレンジを見る時、言葉どおり(言葉の意味どおり)「オレンジを見る」だけではない。オレンジの香りを感じ、オレンジを食べた過去を想起し、オレンジの「オレンジ色」から、まったく別の体験も想起したりするだろう。オレンジを食べた過去の体験の想起は、同時に、オレンジの皮を剥く手の動き、その時に聞いていた物音、風によって木の葉が擦れる音や、あるいは、その時の気温や湿度や光、感情、オレンジの味、等々、様々な記憶を呼び起こし、それらを新たに繋ぎ合わせるだろう。それらの総体が、ある人物の身体の上で混じり合い、ある「曲」の着想となり、それを作曲しようとするモチベーションと繋がることには、何の「切断」もなければ「恣意性」もない。つまり、ごく自然な(因果律に沿った)連続性のなかにあり、何の神秘もない。そこにあるのは「恣意性」よりもむしろ、「オレンジを見る」(その時にそのオレンジを見てしまった)ことが、どうしたって「ある曲」を作曲することをその人物に強いてしまうような、「運命」と呼ぶべきような、強い因果関係による拘束だとさえ言えるのではないか。(だからむしろ、因果列を強く意識する人ほど、必然的に、「原因」を「いくつもの機会の束」へと解体して表現するしかなくなる。)そこではむしろ(因果関係から浮遊した)「主体」の能動性は消え、受動性(因果律)への呪縛の方が強く現れるだろう。(このような意味で、確かに世界を「美」として捉える「主体」は、世界に対し能動的に「否定」を働きかける契機を欠いているとは言える。)
しかし、通常人は、そのような多数の要因が複雑に絡み合った因果関係の束を逐一「言語化」することがないので、単純に「オレンジを見て、作曲した」という短絡的な言葉を使ってしまい(使うしかなく)、「言葉の上」だけでみると、そこに因果関係の切断や飛躍があったかのように感じられる。(しかし通常、人はそれを「言葉の上」からだけでみないで、その「断絶」から、そこに込められた因果関係の複雑さを、ある「塊」のようなものとして感受する、つまり、「断絶」を「あえて」選択されたものとしてではなく、複雑さの表現として、まさに「世界(もの自体)」が存在することのリアリティを示す「厚み」として受け取るだろう。勿論、そのことがオカルトへの通路ともなってしまうのだが。)「太陽があまりに眩しい」と「通行人へダイブ」という一見何の繋がりもないような行為の連鎖もまた、実はその間にあまりに複雑な要因が絡んでいるので、簡単には言語化(要約)できないし、事前に予測することも出来ない錯綜した因果関係の総体としてあるのであって、決して、その「(「あえて」という能動的な)切断」によって主体や自由を浮上させ、それ確保するためのものではないのではないか。人は強い力に導かれるようにして、それ以外にあり得ない運命に導かれるようにして「通行人へダイブ」してしまうのだと思う。(「あえて」なんて、自分の行動を正当化するための、後付けの言い訳でしかないのではないか。)その間の因果関係をみつけだす(納得する)ためには、長大な小説が書かれる必要があるかもしれないし、(社会学的な知や精神分析的な知による)綿密な分析がなされる必要があるかも知れない。(だから、「通行人へのダイブ」という結果を避けるためには、唯一の正当な、絶対的な効き目のある方法は存在せず、「世界」への試行的はたらきかけとその結果を測定しつつ行われる、微妙な抜き差しの持続によってなされるしかないだろう。)それを端折って、「太陽がまぶしかったから、通行人にダイブした」と記述し、それをまた、言語的に平板化して捉える時にのみ(繰り返すが、人は通常、論理的な断絶から「恣意性」よりも「複雑で立体的な因果性の感触」を読み取るものだと思う)、切断と飛躍による「主体-自由」という効果が、つまり「あえて」が得られ、ロマン主義的主体があらわれるかのように錯覚する。
●だから、池田氏の問題意識が指摘すること、まっとうな正論に対して返される、そんなおとなげないこと言わないで「空気を読めよ」みたいな雰囲気に対して抵抗=批判をするためには、ロマン主義的なものへの批判とは、別の通路が必要であると思う。
●二つ目。池田氏は、オウムと理念の構成的な使用について書かれた部分で、言説の「事実確認的(コンスタティブ)」な側面と「行為執行的(パフォーマティブ)」な側面について、大澤真幸を引きつつ述べていた。そこでは、行為執行文では、因果的な根拠を与えることのできない原的な「禁止」が前提になっている、と書かれる。だから、行為執行文を適切に機能させるためには、因果的な説明は排除されていなければならないとされる。因果的な説明が入ると、事実確認文になってしまう、と。例えば「このリンゴを食べるなかれ」という文が、「このリンゴは発癌性のある農薬が使われているから、食べてはいけない」となると、「いや、それは使ってないから大丈夫」ということになってしまう(反証可能性が生じてしまう)、と。だから行為執行文では、「つべこべ言わずに食うな」といわれなくてはならない、と。(つまり行為執行文は純粋な命令として発せられる、と。)この部分がどうしても分からない。むしろ、事実確認文であるように思われるもの、例えば「このりんごには発癌性のある農薬が使用されている」が、実は「このりんごを食べるな」という行為執行文として機能してしまう、ということの方が問題になるように思えるのだが。(つまり、その文が、行為執行的なものか、事実確認的なものなのかは、それを解釈するフレームによって変化してしまうこと。)
池田氏はつづけて、カントのアンチノミーの解決には、「お前の見ているもの(現象)」と「もの自体」を混同してはならない、という命令が埋め込まれている、とする。もの自体は、表象のなかでは「現象の連鎖への否定性」としてしか現れない、と。そして、実在性(表象、現象、見ているもの)と否定性(もの自体)との二重性によって、我々において「世界の偶有性(世界が現にこうであるようなものとは別であり得たかも知れないという気分)」としてあらわれる、と。人間のように世界に内属しながらも、世界全体(という仮像)とも対峙しているような存在にとって、「世界の偶有性」の感覚を持つことは不可避である、と。ここまでは、つまり「偶有性」という感覚が「現に見えているもの」と「それへの否定性」(否定性というのは「言語」によって可能になる)の二重性によって成立する、というのまでは、納得できる。もの自体が、「現象の連鎖」という次元においては「否定性」としてのみ現れる、というのも納得する。しかし、この後の展開、行為執行文における「原的な否定性」が、偶有性のなかに埋め込まれている、ということ。そして、だから、事実確認文のみで記述される言説は「偶有性」に対応出来ず、よって、(反証可能性を担保としないような)事実確認的な言説で世界を埋め尽くそうとすると、必然的にオカルト的なとんでもない話(つまりオウムのようなもの)になってしまう、ということになると、その繋げ方はどうだろうかと疑問を感じる。
まず、何故、行為執行文が「原的な否定(禁止)」を前提にしていると言えるかの根拠が分からない。(そうだとすると、例えば「人を殺すな」というような原的な「禁止」のみが、行為執行文を支えている、ということになってしまう。)もし、行為執行文が因果的根拠とは関係のない「禁止」を示すのだとしたら、それは「もの自体」の否定性によるのではなく、おそらくオイディプス的な力関係の残響としてなのではないか。幼児である「私」には、父による理不尽な「禁止」をはねのけるだけの物理的な「力」がない、とか(あるいは、母による私の拒絶は、幼児である私には死を意味する、とか)、そういうことだと思う。行為執行文は常に他者に向けられる言説である以上、そこには原初的な他者との関係が反映する、とか、そういうありきたりの話にしか繋がらないと思う。「偶有性」という感覚を生む(もの自体を根拠とする)「否定性」は、そのような起源から切り離されて初めて生まれるのではないか。だからむしろ、偶有性を生むのは、もともとは行為執行的なものであった言語が、具体的な関係性から切り離されて事実確認的に使用されることによるのではないかと、ぼくは思う。つまり、事実確認的な言説による科学的認識によって、原初的な対象関係から離陸することで、偶有性が可能になるのではないだろうか。
確かに、理性の構成的な使用による(つまり、理性を経験的なもの以上に拡張して用いるような)事実確認的な言説は、反証不能のものとなり、オカルト化しやすい。しかし、例えば人が「火星の霊は意外と親切だった」と発語する時、それを聞いた人が判断すべきなのはその文の真偽などではなく、それを発語する人が何故そんなことを言う必要があるのか、その欲望の組成であり強度であり、そのような判断を組み立てる脳内のアルゴリズム(その人固有の欲望=病のあり様)なのではないだろうか。つまりそれは、事実確認的な言説としてではなく、行為執行的な言葉として聞かれるべきではないだろうか。だからつまり、行為執行的な発語のなかに事実確認的な言説が混じり込んでしまうことが問題だというよりも、逆に、行為執行的なものとして読まれるべきものが、事実確認的なものとして読まれてしまうことにあるのではないだろうか。「火星の霊は意外と親切だった」という発語は、未だ「具体的な関係性(原初的な対象関係)」から充分に切り離されていない行為執行的な発語(他者への呼びかけ)であり、行為執行的な言葉として読まれれば充分に有意味であり、我々はその言葉から、ある人物の固有な欲望の震えやあり様を(他者という存在の「抵抗感」を)聞き取ることが出来るだろう。
池田氏は、機会原因主義的シニシズムこそが、オウムにおいて、「うっかりミス」の連鎖を破壊的なテロにまで発展させてしまった要因であるかのように話を展開させているが、この繋がりもぼくにはよく分からない。しかし、《あらゆる機会を原因だとする》機会原因主義的シニシズムにおける《最大の機会》は《「身体」それ自身》であるだろうと書いているのは納得できる。《自分自身が身体的な存在であること、それ自身が機会原因論シニシズムの行動をアプリオリに規定している。そしてそのことが、「ポストモダン」が「動物化」する最大の原因であると、考えることが出来る。》これはまったくその通りだろう。
ここで、萌え要素や薬物の例を挙げて、例えば「猫耳」や「プロザック」が、何故身体にある反応を及ぼすのか因果関係が分からないのに、しかし何らかの反応をたちあげる、ということに対し、またも、原因-結果の連鎖の切断を指摘し、そこにロマン主義的なものを見いだしている。《もちろんシニカルな主体は、そのような原因=神が存在するわけではない、ということを知っている。しかし自分の精神=身体の受動性においては、あたかも神のような超越的な原因が存在しているかのように反応してしまっている。その原因が不可視である以上、それを神と呼ぼうと、偶然性と呼ぼうと、あるいは「それ」と名付けようと変わりはない。》しかしここで、それを「神」と呼ぶのと、「偶然性」と呼ぶのとでは、全く違うのではないか。そう「呼んだ」ところで終わりにしてしまえば(つまり「文の形式」だけをみれば)、たしかにかわりはないかも知れないが、その後の探求や実験のあり様や、身体に対する態度が(つまり生の内実が)、「神」と呼ぶのと「偶然性」と呼ぶのとでは異なって来るはずだ。
その後で池田氏は、それを受けてヴァーチャルなメディア空間について述べている。《メールを送信したらすぐに返信が来た。電話の向こうから知り合いの声が聞こえる。チャンネルをかえたら、お気に入りのアナウンサーがテレビのモニターごしに微笑んでいる。これらはすべて神の恩寵のようなものとして使用者に作用する。メールを送信したことと、その返信が来たということにのあいだには、なんの因果関係もない。(略)メールをだしたことが機会となって返信がくるという出来事が起こる。真の原因は、メディア内の空間に存在する、ということになる。》しかしこれはいくらなんでも悪意ある単純化なのではないだろうか。因果関係を明確には見いだせない、ということと、因果関係がない、ということははっきりと違うはずだ。因果関係のすべてが私に分かっているわけではない、ということと、因果関係など無視出来る(結果だけが恩寵のようにたちあがる)、ということとは違う。(因果関係の全てではないにしろ、機会のいくつかは理解できることによって、大雑把な流れを想定出来るし、それによって、基本的には受動的である身体に、ある限定された範囲内で、ある程度の、世界への「主体」的はたらきかけを可能とするだろう。)むしろ、メールを出すという行為に対して、メールが返ってくるという出来事が生じることによって、つまりそのようなメディアの「効果」によってこそ、(その間に明確には因果関係を見いだせないとしても)はじめて「他者の存在」が生々しく立ち上がるのではないか。ある薬物を飲用することで、(その因果関係は不明だとしても)ある「効果」があらわれるということによって、(その間にあるものとして)即物的な意味での「私の身体」の存在が、はじめてたちあがるのではないのだろうか。