●「InterCommunication」(No.58)の冒頭の二つの対談(浅田彰岡崎乾二郎東浩紀稲葉振一郎)は、全く逆の方向を向いているようでもあり、同じ場面の裏表について語られているようでもある。共に、近代的な規律・訓練による統制が崩れて、環境そのものを操作することで、工学的に人間の身体を直接的にコントロールするような社会に突入したという現状認識においては共通しているように思う。東+稲葉の議論においての興味は、そこでコントロールされる大多数の人にではなく、多少でも、その人工的環境をデザインし、コントロールし(あるいは働きかけ)得る立場にあるエリートに向けられている。両氏とも、自らオタクを自認しつつも、オタクの実存のようなものには興味がない、オタクを動かしている構造に興味がある、というようなことを語っている。《起きているときの半分以上は無反省で愚かである大部分の人間を否定はできない。むしろそういうダラッとして愚かでいい加減な人間が大量に生きていられることはいいことだと肯定することをきちんと確認しないとまずい》と語る稲葉氏は、つまりそのような大部分の人たちがダラッと生きていかれるような環境を、多少でも知恵と責任のある者たちが、どのようにデザインしてゆくのかという問題意識によって語っている。しかしこれはダラッと生きていることそのものを肯定していると言えるのかは疑問だ。ここでは、人間は結局、環境や構造によってコントロールされ得るものとして捉えられている。(そしてそのような環境や構造を「工学的な知」によってコントロールし得る。というか、クールにコントロールしないと、どんどんひどい事になる、と。)ドゥルーズが言うように、ディシプリンの壊れた後の人間は怪物になるのではなく、たんに動物になる、ドゥリージアンはロマンチストだ、と語る東氏も、同様の認識だろう。
浅田+岡崎の議論は、この部分にこそ最も強く対立する。岡崎氏は、ディシプリンが壊れた後にこそ、複数の異なった器官のあつまりである身体が、外的なコントロールによらないそれぞれの自律性を見出すのではないか、と言う。(岡崎氏にとって「動物」とは「悟性」のみに従う存在のことだ。)《アガンベンの書いた「剥き出しの生」が露呈してきたときに、完全にコントロールされてしまう社会が実現するのか、逆にそうなった瞬間に、カントの啓蒙モデルではないけど、外的なコントロールによらない自律性が見出されるのか。ぼくは後者だと思う。》このような時、例えばランボー(「非人称の人が、私において考える」)はプレコグ(『マイノリティー・リポート』)として反復される。身体が標本のように保存され、人間として扱われていないプレコグは、完全に自分自身を受け渡してしまうことによって、世界のなかに位置づけられたものとしての主体の外、世界の外に出て《錯乱する感覚の器そのもの》となる。(岡崎氏は精神分析が嫌いだろうけど、これはジジェクの言う「行為」に近いようにも思う。)浅田氏や岡崎氏は決してそういう言い方はしないだろうけど、ここで問題にされ、言われているのは、オタクを動かしている構造でも、勿論オタクの実存(主体)でもなく、まさに(工学的にコントロールされ)「ただダラッと生きている」ようにしかみえないオタクの、頭のなかで起きていること、あるいは、身体の上で起きていること、そのものへの興味なのではないだろうか。(東+稲葉と浅田+岡崎との違いは、『マトリックス』と『マイノリティー・リポート』の違いと類比的だと言えるかもしれない。)
●《「文芸の哲学的基礎」という漱石の感動的な講演会があって、これは現在の東京芸大、美術学校で行ったものです。そこで漱石は小説を書くのは国家をつくるのと同じくらいか、それ以上に重要だと言うわけです。小説家のことを暇人だとみんな思っている。確かに昼寝ばかりしているうえに、宵寝もし、朝寝もする、ほとんど寝ているだけのようなものであるけれど、われわれは暇であることによって国家ではない別の組織というか世界を構築しようとしているのだ、と。これはまんざら嘘ではなくて、そのための条件として、まず社会的に登録されている私から離れなければならない。》(岡崎乾二郎)