06/09/02(土)
●引用。メモ。岡崎乾二郎「批評の窮状」(「InterCommunication」No.58)より。
●表象システムと、生産過程
《表象することは、さまざまにありうる生産過程を無視し、すべてを結果(生産)としてのみ取り扱い、一元的な表象論理で写像として写しとる(模倣する)だけであって、産出それ自体の過程を理解することも、それに接近することもできないからです(表象しえないものとは、この産出のプロセスそのものである)。そこで理解されえるものは、常に既に反復、再認のみです。こうした表象による再認のメカニズムに寄り添う限り、批評は力をもつことはないでしょう。》
《例えば、複数の文化が交錯する現在を生き抜いてきたネイティブ・アメリカン(マシュピー・インディアン)が、こうした文化構造が彼等にあらかじめ付与してきたイメージを、自らあえて真似しキッチュとならない限り、法廷で自らのアイデンティティを証明することができないという事件が起きます。表象システムは(それのみを参照しようとする法廷も)可変的に変化しつづける対象を扱えないのです。ここではシステムに登録されるところの主体と、そこに決して回収されえない複合性、多数性をもった過程のなかを生きている個々の生は完全に切り離され、後者は忘却され、あげくに廃棄されてしまう危機にたえず直面させられてさえいます。》
《文化的生産物すなわち結果として扱われる限り、芸術作品は、システムに位置づけられた代表=表象として、反復、再認されるキッチュと化すほかない。こうした一元的な表象秩序=法に抵抗するためには、生産物それぞれを生成させた生産過程それぞれの固有の法に立ち戻るほかないと。》
●合法的な権利と、倫理的な次元
《こうした条件のなかで、オリジナルと偽物の区分は、システムの円滑な回転に正当性を与えるものであるがゆえに、まさに法として(合法的権限として)制度的に付与されなければならないものになります。つまりここでオリジナルとは、表象システムが自らを機能させるために必要とする事後的な産物である。再生産され、利潤を生み出すコピーに正統と保証することこそ、オリジナルが必要とされる条件(つまりは根拠)でした。コピー生産(複製)という動機、欲望こそがオリジナル (の捏造、偽装)を必要とする。それは誰が作者かという問いも同型です。作者という像をどうしても必要とするのは、その芸術作品を語り論じることも含めて、作品を複製し、そこから利潤=関心を生みだそうとする人々にとってでしかありません。彼等は作者の名を使い、あるいは偽称することなしに、その作品を作品とすること、それを制御する術をもっていません。いいかえれば、彼らはその作品が生成してくるところの生産過程、すなわちそれを生成させたオリジンから限りなく遠ざかっているがゆえに(どのようにそれが作られたのか語りえないゆえに)、すべてを曖昧にしたまま、生成のすべての起源を判断不能な一点、つまり作者の自由な創出という一点に帰属させようとしているわけです。》
《こうして作者あるいはオリジナリティというステータスは、一元的なシステムには本来回収しえないさまざまなる生産過程の多数性、多元性を、当のシステム内部での反復として再認可能な再生産されうるイメージへと変換する仕掛けであり、同時に、それを永遠に触れえないもの、語りえないもの、理解できないものとして遠ざけ排除してしまう二重の仕掛けとして機能します。システムが合法的権限として付与する作者というステータスは、本来そのシステムの外部(別のシステム)で生産されたものを搾取し、システム内部の既得権(再生産、複製によって利潤を獲得する)として所有するためのアリバイ以外のものではない。そこで制度的保証が与えられ確保されるオリジナルという認定は、システムの外部に切断されたオリジン(生産過程)を、もはや到達しえない不在性として封印する証紙のようですらあります。》
《対して、批評はいかなる制度的な裏づけ(合法性)とも無関係に、つまり倫理的次元でのみ、作品そして(むしろ合法的な権限によって不当に切り離された)作品生成のプロセスこそを判断しなければならない。》