●午前中、制作。午後は散歩。最近つくった小品の(ピンボケぎみの)写真(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/himawari.2.html)を何点かアップします。これらの作品は、前にも書いたけど、駅前のスーパーの裏にある畑のヒマワリを描いたものです。正確には、そのヒマワリのある空間=環境全体から受けた感覚的刺激をもとにして制作されている(その刺激が作品を制作させた)、と言うべきかもしれません。今まではなかなか使えなかった、カドミウム系の強い黄色や赤が使われているのですが、それらの色はまさにヒマワリによってもたらされたものです。(赤い色のものは、ヒマワリのある畑の周辺には存在しないのですが、ヒマワリの黄色が、同時に赤を含んでいるような黄色なのでした。)それらの色は、ヒマワリから受けた感覚的印象によって、強引にぼくの絵のなかに侵入してきたのです。(赤や黄色を「招き入れる」ための準備段階として、サクラクレパスによるドローイングが有効だったように思います。しかし、それは結果的にそうだったと事後的に言えることで、意識して、そのためにクレパスのドローイングをやっていたわけではありません。)
●引用。メモ。郡司ペギオ-幸夫。(アート・ティクトクvol.1での岡崎乾二郎との対談より。)
●幽霊とデジャヴュ
保坂和志さんの小説に、風呂場で影をみた---幽霊のことですが---というエピソードがでてきます。あれは要するに過去の自分と現在の私の混同ではないでしょうか。(略)
「痛い」ということは、たとえばお湯に手をつっこんで100C゜であると感じた、ということの単なる言い換えかというと、そうではなく、ダメージを伴っちゃうことがポイントだと思います。日本語ではpainの「痛み」とdamageの「傷み」というのは同じ音ですが、両義的というところが重要だと思うのです。生物学的に考えると、反射的に刺激に対処する神経回路の小さくて早い刺激-応答系と、意識が関与して「痛い」を計算する大きくて時間のかかる刺激-応答系とがあると思うんですが、これが、例えば内包・外延の共立に対応するもので、共立ゆえに齟齬・ダメージがある。それが傷みとなって、いわば内部に常に刺激を創り出している。意識が関与する刺激-反応系は、大きい回路なので時間がかかり、直ぐには刺激に対処できない。なんだけど、実は意識は、自分が創りだした、内在する刺激・仮構された刺激に対処してしまっている。つまり現在完了だと思って意識が対処しているものは、ずっと以前の過去完了の刺激。デジャヴュは、この舞台裏の露呈なんじゃないか、とも思うのです。》
●引用。メモ。郡司ペギオ-幸夫『生きていることの科学』より。
●データとプログラム
《じゃ、データとプログラムの分節を作り出すものは何か? そりゃ計算を実行するということ自体だよね。たとえば計算する人間。彼がデータとプログラムを区別し、後者を前者に運用する。この過程の全体が計算の実行だ。その意味で、データとプログラムの分節を作り出すものは、計算実行だ。これを、実現を担う者という言い方をすると、それは、エネルギーや計算に必要な温度など、物理的条件をひっくるめた実行環境であり、実行する人間ってことになる。だけど、人間も物質であり特殊な環境だから、これを一括すると、最終的に、データとプログラムを分節するものは、現実の計算実行環境となるね。
じゃあ、現実の計算実行環境が、自ら作り出した二項対立を、曖昧にし無効にしているか。ちょっと隠喩的に言っておくと、プログラムそのものが蝕まれ、ばらばらに分解され、データのような部分に回収される、そういう過程が現実の計算実行環境に含まれているということだね。そうだとすれば、データとプログラムの部分・全体という区別は、こうして曖昧にされ、覆される。データが現実との接点・解釈・意味を有している以上、ばらばらにされ、いわば疑似データ化されたプログラムも同様の接点・解釈・意味を有することになる。こうして、データの意味-認識と、プログラムの意味-クオリア・感覚という対が出現する。ここでは、抽象的な認識と、クオリアや感覚という、二元論を最初に想定しているわけではない。そうではなく、データ・プログラムの区別から出発して、データの十全な計算によって認識を説明しようとすると、逆説的にプログラムの解体やら、データ・プログラムの区別の無効化によって、感覚というプロセスの必然性が理解される。そういうわけだ。》
《体調のおもわしくない意識、不健全な意識、ここから直感されるのは、疲労したプログラムであり、腐食したプログラムだった。通常想定される計算過程、プログラムとは、確定された状態や記号の、順序づけられた記号の列だ。純粋に抽象的、理念的存在だから、時間や変化、歴史を超越した存在だ。プログラムそのものは変化し得ない。だから、腐食、疲労、消耗のような、コントロールできない、どうしようもない変化とは無縁と考えられる。いずれ死ぬ、いずれ腐る、といった不可逆的な時間の流れは、モノそれ自体の性格であり、プログラム概念から排除されるはずだった。
でも他方、プログラムが物質で書かれ、物質で構成されている、という観点を導入すると、プログラム疲労・消耗が視野に入ってくる。生物の形質を決めるプログラムと言われる遺伝子を思い出せば、物質であるプログラムがとっぴな概念じゃないってのは、わかるよね。その意味するところは簡単じゃないけど。物質で書かれたプログラムは、確定的な状態や、記号の自明性を失うことになるから、制御可能を前提とする計算という概念と、そりがあわなくなる。》
《プログラムは可能なデータの全体だから、柔軟なプログラムや、変更され得るプログラムは、可能なデータの変更、あらかじめ規定できないデータを、たまに持つことがある、のではなく、常に含むことになるよね。ということは、データが認識という意味を有するなら、物質としてのプログラムは、データが持ち得ない意味、を有することになる。つまりそれがクオリア、感覚だろう。
ちょっと別な言い方でまとめておこう。物質化されたプログラムという概念は、一元論に還元できず、二元論でもないミクロとマクロという二つの観点を認める立場を帰結する。記号が5である理由を問われたなら、これをミクロな状態で説明する以外に方法はない。でもこれを厳密に確定しようとすればするほど、確定基準を覆す条件、ミクロとマクロの観点の齟齬が発見されてしまう。だから、マクロな記号の自明性は失われる。同時に、マクロな記号がミクロな状態との関係を担うことで、マクロな記号は無際限な多様さ、潜在性に開かれることになる。プログラムというマクロな存在が、消耗し疲労する。それは、ミクロな物質レベルでの微細な変化だ。それは、あらかじめ規定したデータではあてはまらない。データの性格を担う何かだ。だから、いわば未分化な認識、原初的認識を立ち上げる。それが感覚さ。》