●朝早く起きて、六時過ぎから、午前中いっぱい、たっぷりと制作する。昼過ぎに、近所のツタヤに借りていたDVDを返しに行き、そのまま散歩する。今日はとても日差しが強くて暑いけど、蒸し蒸しした感じはなく、風が吹くと涼しい。散歩に疲れると、冷房の効いた電車に乗って画材屋まで。その後、本屋で立ち読み。(欲しい本があったけど、画材を買ってしまったので我慢する。)帰って、一時間くらい昼寝して、夕方は、喫茶店でホットココアを飲みつつ、原稿のゲラのチェックをしたり、本を読んだりする。もし、毎日このようにして過ごす事が可能ならば、六十歳くらいになる頃には、ぼくだってかなり大した画家になれる(あるいは、相当気が狂った画家になれる)のではないかと思うのだが、実際には難しい。つくづく、セザンヌの(才能というよりむしろ)「親の経済力」をうらやましく思う。(今日の散歩。http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sanpo.2.html)
●アトリエにあまりに長い時間居座ると、ついつい余計な手を入れてしまう。手を入れないよりも、手を入れた方が、何か努力した、やるべき手を尽くしたという気になって、安心出来るからだ。しかし当然だけど、やるべきでないことはやるべきではない。なにより、やるべきでないことをやりすぎると、やるべきことをやるタイミングを見失う。それどころか、やるべきことそのものを見失う。自分が今出来ることの範囲内で、簡単にものごとを完結させてしまってはいけない。(作品がまだ弱い、充分ではないという状態を、手っ取り早く解決しようとしてはいけない。)しかし、自分が今出来ることを、無駄に引き延ばしたり、出し惜しみしたりしてもいけない。その都度(最初の一筆から)、「一発で決める」というくらいのテンションで常に手を入れ、にも関わらず、決して一発では決まらないという事実(結果)を引き受けて、その次の一手を探らなくてはいけない。
作品は時間のなかでつくられる。だから、しかるべき作品をつくるためにはしかるべき時間がかかる。そしてさらに、「しかるべき作品をつくることの出来る自分」をつくるのには、もっと時間がかかる。(こっちの方が面倒くさい。)しかし、ただ時間をかければ良いというわけではないのは当然のことで、「しかるべき何か」を掴むのは、「しかるべきその時」でなければならない。スポーツ選手が自分の身体をつくり、経験を積み重ねるには長い時間がかかるが、バッターボックスのなかで、投手の投げた打つべき球を見極め、捉えるのは、投手の手からボールが離れて手元に来るまでのほんのコンマ何秒かの時間しかない。「打つべき球」を、そう何球もつづけて投げてくれる程、投手は間抜けではない。三振した後で、その球を完璧に見切っても、もう遅い。(しかしこれは適切な比喩だろうか。)