●作中人物は、あくまで作品内部で存在するものだが、ギャラクターは作品から切り離されても存在する。例えば、A.A.ミルンの書く、くまプーは、『くまのプーさん』や『プー横町にたった家』のなかの作中人物(動物)であり、その作品世界とともに(同時に)たちあらわれ、その作品世界という環境のなかではじめて存在しはじめる。作品世界という全体(地・フレーム)があってはじめて、プーという人物(動物)の固有性が生じる。プーを知るためには、『くまのプーさん』を読むしかないのだ。対して、ウォルト・ディズニーによるキャラクター「プーさん」は、そのアニメーション作品とは切り離されて、既にマグカップやらノートやらTシャツやらに印刷されて、あるいはぬいぐるみとして、そこに存在している。「プーさん」を知るために、そのアニメーション作品を観る必要はない。極端なことを言えば、アニメーション作品そのものも、マグカップやぬいぐるみと同等のキャラクター商品の一端でしかなく(もっと言えば、それはキャラクター商品のプロモーション映像でしかなく)、「オリジナルな作品」ではない、とさえ言い得る。(これは作品そのものの「質」とはまた別の話だ。)はじめにアニメーションの「作品」があって、そこから取り出されたキャラクターが、キャラクター商品として(二次的なものとして)利用されるのではなく、オリジナルな創作物はキャラクターの方であって、それ以外は、それを利用した二次的創作物(二次的商品)ということになる。
●作品に対する興味と、キャラクターに対する興味はどう違うのだろうか。例えばぼくは、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品に興味があっても、綾波レイのフィギュアや、彼女を使った二次創作物には興味がない。というか、フィギュアに興味をもつとすれば、それが美術工芸作品としての面白さがある場合であり、二次創作物に興味をもつとしたら、そこに漫画や小説としての面白さがある場合で、つまりぼくの興味はあくまで「作品」の方にある。それは、綾波レイという登場人物に惹かれないということではない。もし綾波レイに惹かれるところがあるとしたら、その魅力は彼女の存在を作り出した作品全体から生み出されたもののはずで、だからぼくの興味は作品へと向かう。そして「作品」への興味は、やはりどこかで、その作品をつくりだした(実在する人間である)作家(たち)への興味へと繋がる。(あるいは、人によっては作家よりも、その作品を生み出した社会的な背景の方が気になる人もいるだろう。どちらにしろ、作品の向こう側には作者が存在し、その作者が生きている環境や個人的、社会的関係性がある。)
(作品は孤独な個人によってつくられ、孤独な個人によって受容される。それは瓶に入れて海に流される手紙のようなもので、相手の顔が見えないし、いつ受け取られるのかもわからないし、それどころか、それを受け取る相手がいるのかさえも分らない。作品とはそのような特異なコミュニュケーションの形態であろう。それは特定の場やコンテクストに支配される直接的なコミュニュケーションとは全くことなるものだ。しかし、それでもそれが、そんな相手がいるかいないか分らないとしても、作品が実在する(かもしれない)誰か(他者)へと向けられているものであることはかわらない。確かに、ポストモダン以降、安易に起源としての「作者」をたてることは出来なくなった。しかし、作品を受容する時、その作品の向こう側にある、作者の身体の存在を想定しないでいることが出来るのか。というか、そうでないと作品に「意味」などなくなってしまうのではないだろううか。)
しかしキャラクターへの興味は、おそらくそのキャラクターをつくりだした作家には向かわず、あくまで、そのキャラクタそのものに注がれ、そこで完結するのではないか。キャラクターへの興味は、そのキャラクターの(ヴァーチャルな)「実在」につきあたって終わるのであって、それを媒介として実在する作者へは向かわない。キャラへの萌えは、そのキャラの効果への萌えであって、その作者へのリスペクとにはつながらない。(つまり、そのキャラが「私の身体」に与えてくれる効果のみが問題となり、その「効果」をつくりだした具体的な他者の存在を、あるいはそれが「私」のところに届けられるまでの来歴=生産、流通過程を、あるいはそのような「効果」が生じる自身の欲望の組成への関心を、意識から消している。)端的に言えばそれはアニミズムであり、もっと言えば、それは社会的な関係性への想像力の欠如であるとも言えてしまう。
●だがしかし、キャラクターへの興味がコミュニュケーションへの回路を断つようなものなのかと言えば、それはまったく逆だろう。例えば、人は、ディズニーランドへ、たんにディズニーキャラクターを消費するために出掛けるのではない。そんなことよりもむしろ、家族や友人や恋人たちが、その関係を親密にするために出掛けるのだ。(おそらくコスプレなんかも、多分にそのような意味があるのではないか。)つまり、キャラクターは(直接的、実利的な)コミュニケーションのツールとして「使われる」。だからそこには、作品も作者も必要ないのだ。
●話はズレるが、例えば、同じ本をブックオフで百円で買うのと、普通に千五百円出して買うのとはどこが違うのかと言えば、百円で買えば自分は得をするが、その百円はブックオフのもうけにしかならないのに対し、千五百円で買えば、その本を出した出版社、その本をつくった編集者、その本を書いた筆者それぞれに対する、積極的な評価の表明となり、経済的な支援となる。ただ「私」が本を読めれば良いのであれば百円で買う方がいいに決まっているのだが、その本の向こう側には(たんに筆者にとどまらず様々な次元で)作者がいて、この社会のなかで、経済活動をしつつ生きているのだという程度の想像力があれば、必ずしも百円で買う方が(自分にとってさえも)得だとは言い切れないと分る。
(この記述は、東浩紀氏の記事http://www.hirokiazuma.com/archives/000245.htmlと、それに反応した仲俣暁生氏の記事http://d.hatena.ne.jp/solar/20060829を読んで、ぼんやりと思い浮かべたことをもとにして、勝手に自分の関心に引きつけて書いたものです。お二人の記事に内容的に大きく依存したものではありますが、必ずしもそれらの記事の意図や関心と正確に重なるものではありません。)