●まだ実物を確認してはいないけど、8月20日に出た「ホームシアターファイル」という雑誌に、(DVDが出たのにあわせて)ヴェンダースの『アメリカ、家族のいる風景』についての短いレビューを書いています。「映画芸術」に書いたのとは、少し違った視点から書いています。
●引用、メモ。クラウスによって要約されたフロイト。「視覚的無意識」より。
《彼(フロイト)の気付いたところでは、未開の人々のアニミズムと幼児のナルシシズムはともに、彼ら自身の延長物、分身とか影(亡霊)というかたちの投影で世界を満たす。フロイトはいう、「分身とというものはその起源においては自我の破壊に対する保険であり、死の力に対するエネルギー論的な拒否である。」彼は続ける。「それは夢の言語の片われである。その言語は、性器的シンボルを分割したり複数化したりすることによっ去勢を表す傾向があるのである。」しかし、幼児の誇大感覚が無力さと言うあまりに明白な事実に屈服するように、主体自身による創造はフランケンシュタインの怪物になる。「束縛されていない自己愛の土壌から、未開人の精神の中でと同様、子どもの精神の中で支配力をふるっている一次ナルシシズムから生い育った」さまざまな観念は、出来事の逆転の基盤を形成する。「この段階が追い越され、取り残されたままになると、分身は異なる様相をとるようになる。不死生の保証であったものが、幽霊のような、死の先触れとなるのである。」分身は幽霊に、食屍鬼に、悪霊になる。》
フロイトはこのことを「不気味なもの」のコンテクストで論じている。運命に直面したときの突然の、不快な「再認」がもたらす感情、それが成人の生活の中で果たす機能を捉えようと格闘しているときに。しばしば、この感情は、フロイトの観察するところでは、一見したところ偶然に起こったように思えることが実はその人物にために特別にしつらえられたもので、たまたま一致したかのような見かけの背後には、あるメッセージが解読されるべく待ちかまえているのだという感覚から生じている。(略)たとえば、ある数の執拗な回帰のように見えるものに秘密の意味を与えてしまうことへの誘惑は、これらの反復の中に運命の言語を読み取らせてしまう。》
《しかし、フロイトは不気味なものについてより広い枠組みかの中で語っている。自己の中のより以前の段階、より初期の段階にあるもの、もっとも発達していないものへと退行する必要、それを反復する必要がそこで考えられる枠組みの中で。それゆえに、偶然事に意味をあてがうこの身振りと透視の力を仮定すること(とってつけたように、彼の患者がいう「いつも『たいてい』本当になる『予感』のことにふれられる)に関して、フロイトは、成人生活における、より心理学的に原初的段階、つまり、思考の全能とアニミズムの信念に結びついたそれの肯定として理解している。彼は書く。「われわれの誰もが未開人のアニミズムに相当する段階をその個人的発達において経験しているのだが、その何らかの痕跡を留めることには誰もそこを通り過ぎることはできないかのようなのだ。そして、今日われわれを『不気味なもの』として襲うものはすべて、われわれのうちに残っているこのアニミスティックな精神活動の痕跡を再び活性化し、それを表現へともたらすという条件を満たしているのである。》
《想像と現実の区別の崩壊---ブルトンがすべてのシュルレアリスムの源泉に求めた効果、だが、フロイトは呪術における原初的思考として分析するもの---アニミズム、ナルシスティックな全能感、すべては不気味なものという形而上学的な戦慄の潜在的な引き金である。それらのものは、生のより初期の状態の意識への突破口を表しているのだから、そして、この突破口において、それ自身反復強迫の証拠なのだが、主体は死の観念にのみ込まれる。》