●正しさとは別の原理によって厳密さを追求すること、競争とは無関係なやり方で自らを律して、充実を得ること。作品を作るという時、あるいはたんに生きるという時、これらはとても困難で、しかしとても重要な問題だと思う。
●実際問題として競争を避けて生きることは出来ない。しかしそれは、たんに必要だから仕方なく競争するのであって、競争に充実を見いだしてはいけないし、競争を利用して充実を得てもいけない。しかし、競争抜きに充実を得るのは、案外むつかしい。
ナンバーワンとは何か。一番速く走ることが出来るということなのか、一番深く愛されているということなのか、あるいは、一番深く愛されていると信じることが出来るということなのか。おそらく、象徴的な価値の媒介によって、「一番速く走ることが出来る」は、(大文字の他者から)「一番深く愛されていると信じることが出来る」に接続されるのだろう。
(一番早く走るといっても、実は無数の一番があり得る。仲間で一番、村で一番、百メートルなら一番、ジクザク走なら一番、この森の中なら一番、チーターを追っている時なら一番、氷の上なら一番、等々。だが、「百メートルなら一番」は象徴的な価値を持ち、時に金銭と交換可能だが、「この森を走り抜けるなら一番」は象徴的価値をもたず、象徴的的な価値によって支えられる「一番深く愛されていると信じられる」とも結びつかない。しかし、「この森を走り抜けるなら一番」の人が森を走り抜ける時、そこには非常に充実した身体的感触=快楽がともなうものだと予想される。勿論、それはたんに「速さ(質)」に関わるのであって、「一番(競争/あるいは転移)」とは何の関係もない。)
●正しさという基準抜きに、制作が可能か。美はいつも、真や善の比喩的表現という役割をもつ。美は感性にはたらきかけ、真や善へと人を導こうとする。だとしたら美とは、馬の鼻先にくくり付けられたニンジンにすぎないのではないか。鼻先のニンジンを追いかけることによって得られる充実は、競争によって得られる充実とどこが違うのか。正しさ抜きの美とは、鼻先ではなく、口のなかや胃のなかにあるニンジンのことだとすれば、それはたんに身体的な(神経的な)感触の充実、快楽あるいは満足に還元されてしまうだろう。それにどこまでの厳密さを要求できるのか。それだけで生きてゆけるほどの快楽(充実)というのはあり得るのか。
●「この森を走り抜けるなら一番」の人が森を走り抜ける時、その速度に貫かれた身体的な感触(質)のなかに、(象徴的な秩序抜きに)ある「他者」のようなものが見出されることはないだろうか。それがおそらく、競争とも正しさとも無関係のなにものかではないだろうか。しかしそれは、その人の身体のなかにしかなく、その外からは伺い知れない。(これはとてもプリミティブな神秘主義なのだろうか。)