●画家の小林正人は、どんな作家、どんな作品に影響を受けているのかと質問された時、目に見えるものの全てに影響を受けている、と答えていた。これは一見、なるほどと思え、とても格好良い答えではあるが、ちょっと格好良過ぎるとも言える。
ある作家、あるいはある作品が、どんなものに、どのように影響されているのかを分析するのは、それをつくった作家当人がすることではないだろう。ぶっちゃけ、ある作品をつくる時、何か別の作家の作品を意識的に参考にしたり、元ネタにしたりすることは、当然誰でもがやっていることで、自分は誰にも頼らずに、まったくのオリジナルで、全てを最初から自分の力だけでつくりあげた、などということは絶対にあり得ない。しかし、作品をつくる時、何かを意識的に参考にする、というのは、「作品をつくる」という雑多な行為のうちのごく一部のことでしかない。たとえ、一字一句まったく同じに書き写すのだとしても、それを「自分の身体でやる」以上、その行為にはその元となる作品以外のものがいくつも入り込んで来る。
何かの真似をするという時、その何かのうちの何を真似するのか。その結果を真似するのか、結果を導き出す過程を真似するのか、それとも、出来上がったものとしての形式を真似するのか。それともたんに、部分的な「ネタ」をパクるのか。
野球選手が、自分の苦手なコースの球を打てるようになるために練習する時、そのコースが得意な他のバッターのフォームを真似るのは、ひとつの手ではあろう。しかし、そのフォームをそのままトレースするためには、そのバッターと全く同じ身体が必要となる。その時、そのバッターの身体訓練の過程や、バッティング練習の方法を真似することも、ある程度は有効であろう。しかしそれでも、もともと「別の身体」であることを完全に解消することは出来ない。おそらく、その「野球」が高いレベルでされていればされている程、その身体の違いは誤摩化しがたいものとなる。
映像をくり返し見て、その「形」を外から徹底的に分析することも、実際にその人に「コツ」のような感覚的なものを聞く事も、具体的な練習の方法を知ることも、それぞれ、苦手な球を克服するための有効な導きとなるだろう。しかしそれらは、それぞれ導きの糸の一つでしかなく、決定的な道は示されず、それをたよりにしつつも、自分自身の身体をいろいろ試行錯誤して動かしつつ、どこに行き着くかわからない「いい感じ」を探ってゆくしかないだろう。現代の進歩した科学技術は、問題点の指摘(把握)をより的確に、迅速に導きだすかもしれない。しかし、その問題点をどのようにして「克服するのか」は、それぞれの、一人一人異なる身体において見つけ出されるしかないはずだ。この時なされる努力は、明確な方向をもたない、不定形な努力としか言いようのないものだが、そこに、あるイメージとしての、あるいは予感としての「方向性」がある程度はみえていなければ、その不定形な努力そのものが可能ではなくなる。(でも本当は、その予感はたんに「予感がある」と「思い込む事」でしかないのかもしれないのだが。)
そのような努力を通じて、ある程度の結果が示される「形」を獲得できたとしても、その結果としての「形」が、もともと目標にしていたバッターの「形」と似ているとは限らない。(いや、それはきっとどこか似ているはずではあるのだけと、人が「似ている」という時、その人がどのようなポイントで見ているのかによってその印象は大きくかわるはずで、それが「似ている」ことを見て取ることが出来るのは、同じような問題意識をかつて持ったことがある人だけかも知れない。)
あるフォームを獲得した打者が、そのフォームを内的に掴んでいる「感じ」と、そのフォームを外側から見た時に得られる「形」にはどの程度に繋がりがあるのだろうか。勿論、そこには密接な関係があるはずで、これは問題の立て方が良くない。実際に投手が投げた球を捉えるのは、「形」そのものでもなければ「感じ」でもなく、その打者の身体の過程の全ての状態であるはずで、しかし、人は自らの身体の過程全てを意識的に把握し、それを操作することなど出来ないのだから、ある時はそれを「感じ=イメージ」として把握して操作したり、またある時は「形式」として外側からみることで、操作、修正したりするしかない、ということだろう。それはどちらも間接的な、大掴みな操作で、「さぐりを入れる」ような感じでしかない。
だからその「感じ」も「形式」も、現在の身体の状態を基底として導き出されたものであって、例えば加齢などによって筋肉や反射の速度などの状態が変化すれば、それらもまた、なにがしかの修正が必要となるだろう。
よって、小林正人はこう答えるべきだったのだと、ぼくは思う。「その質問には意味がない。」