最近のヨーロッパ絵画のイメージについて

●ぼくは何故、絵画の復権以降の、現代のヨーロッパの絵画の傾向が嫌いなのだろうかと考える。まず、彼等がやっていることは、絵を描くことではなくて、(既にあるものとしての)「イメージ」を収集し、手を加える(掛け合わせ、編集し、変形させる)というようなことだ、ということがある。そこでは、絵画はたんにイメージを盛り込むための器に過ぎないものになる。あるいは、絵画の歴史を意識するということが、絵画というイメージをなぞることになってしまっている。絵画は勿論、何かしらのイメージを示すものなのだが、同時に、それ自体としてそこにあり、その場、そこの空間に関係するのでなくては面白くない。
いや、そうではなくて、絵画は、既にあるイメージを二次的に加工する場ではなくて、描くことによって「その場」にイメージが生まれる、というのでなくてはおもしろくない、ということだろうか。勿論、描かれた絵は常に「何かに似ている」のだが、(それが既にある何かに似ているにしても)既にあるイメージが引用され、添付されるのではなくて、描くことでその都度「そこで生まれる」のだ。この、「そこで生まれた」という事実が、その絵に宿る。イメージが他所からやってきて、そこに添付されたのではなく、「そこ」で生まれたということは、そのイメージと、イメージを支えている物質的な基底(素材や支持体)とが不可分であるということだろう。イメージそのものは反復し、複製されるものだとしても、それを支えている物の組成は、その作品が組み立てられることで、はじめてこの世に生まれる。
例えば、長くつづく伝統の味が引き継がれた料理であっても、その料理は、今現在、穫れたばかりの新しい食材によってつくられるしかない。反復される「味」は、新鮮な食材の、その都度の新たな組み合わせ(調理)によってしか維持されない。である以上、それはおそらくレシピの正確な実行だけでは成されないだろう。そこで「味」はたんに再現されるものではなく、同じ「味」が、新たに(技術をもった料理人によって)その都度制作されなければならなくなるだろう。制作という観点から観れば、味(あるいはイメージ)は、簡単にコピーしたり加工したり出来るものではない。その同一性は、簡単には確保されない。
あるいは、制作という観点でなくても、例えば「味」というのは主観的なもの、つまり、それぞれが、それぞれの身体の上で結像させるものであるという点もある。「同じ味」というとき、何がどの程度同じであれば「同じ」なのか。あるいは、違うはずのものが「同じ味」と感じられるとはどういうことか。(桃と桃味のアイスクリームとでは、どの程度「同じ味」なのか。)というか、そもそも、違う食材でつくったものの味が「同じ」であるとはどういうことなのか。そして、その「味」を感じる私の身体の状態が異なる時、同じ成分のものでも同じ味と感じられるのだろうか。二百年前から「同じ味」と言っても、二百年前にそれを食べた人は今は生きていないのだから、つまり、二百年前に食べた人と、今食べている人とは「違う人(違う身体)」なのに、その「味」をどのように比べられるのか。というかそもそも同じ人でも、昨日食べたものの味と、今日食べたものの味を本当に「比べ」られるのか。と、ここまで考えてくると、「味=イメージ」というものを、そんなに簡単に「既にあるもの(同一性のあるもの)」として扱えなくなってくるはずだと思う。イメージを扱うということは、こういうこと全てを同時に扱うことであるはずだと思う。
にもかかわらず、そいうい細かい点はみないことにして、大雑把に「同じ味(イメージ)」は「同じ」として扱える(コピーし、組み合わせ、加工出切る)ことにする、という暗黙の「お約束」に従ってつくられているのが、現在のヨーロッパの多くの絵画であるように、ぼくには思われる。それはつまり、感覚の不確かさに目をつむり、イメージを言語のように扱える(つまり「同じ」という文字と「同じ」という文字とでは、筆跡が違っても「同じ」ものとみなす、というような)というような見方が、強固に「前提」になってしまっているのではないだろうか。