感覚のインデックス

●ぼくは貧乏だし育ちも悪いのでそんな世界とは程遠いけど、例えばワインの味を言葉で細かく形容するみたいな文化がある。これはおそらく、味という感覚を言葉によって表現するというよりも、感覚の不確かさや不安定さを、言葉を用いることによって補強し、確定しようとすることなのではないかと感じる。感覚の不確かさや掴み難さを、言葉によって表現し表象することは出来ないにしても、なるたけ詳細な感覚のインデックスを言葉に頼ることでつくり、それによって不確かな感覚を捉えるための助けとすることは出来るだろう。(そして、過去の他者がつくったインデックスは、自らの感覚の精度を研く助けになるだろう。)勿論、これは危険な諸刃の剣でもあり、言葉による形容が、感覚と切り離されて「言葉」という次元のみで独立して作動してしまい、それが感覚を欺き、感覚を強制的に言葉の秩序に従わせてしまうということにもなりかねない。たんに華美な形容となった言葉は、ただ「社交」にのみ貢献し、人を世界から切り離す。だから人は、言葉抜きで(ラベルや名前抜きで)、あのワインとこのワインの違いを言い当てる利き酒(目利き)の能力を、繰り返し試されなければならなくなる。言葉は、人を説得し、言い包めるために使われるだけではなく、常に繰り返し、「もの」とのつながりが試されなくてはならないだろう。そこではじめて、感覚がどの程度の精度で世界と対応しているかが知れる。
作品というのは捉え難く曖昧なものでもあるから、多少頭がよかったり才気があったりすれば、それについて「どうとでも言え」てしまう。ある作品をネタにして、いかに面白い事、気の聞いたことが言えるかという競争は、それ自体として面白いと言えば面白いだろう。しかしそれは遊びとしては面白くても、結局、言葉を使う人が、(ある限られた人間関係のなかで)いかに自分の気が利いているか、冴えているか、頭が良いかを誇示する行為に過ぎないだろう。重要なのは、ある作品が、あるいは作家が、どの程度良いもの(悪いもの)なのか、どのような「質」や「密度」や「組成」をもつものなのか、を、既成の文脈や名前といった手がかり抜きで、どの程度正確に「判定」出来るのかということだろう。そしてそれこそが、当の「判定する人」がもっともシビアに試される地点なのだ。(だから、何かを「判定する」ことは、とても重たいプレッシャーとなる。)
●21日に書いたこととつなげるとすれば、「型」というのは、身体からある特定の状態を引き出すための感覚のインデックスとしてあるのかもしれないと、ちらっと思った。