●前日にUSTで見ていた会場に実際にいってきた。住所非公開のラボラトリーキッチンで、serrata2017−12「記憶のアンサンブルとしてのモノ」(清水高志×永田希×岸井大輔 司会:仲山ひふみ)。夜の十時半から翌朝の五時過ぎまで夜通しトークする(しかも十三日連続)というとんでもない企画の十二日目。四人でのトークというより、清水さんの哲学がどういうものなのか、あるいは、哲学や人類学の新しい潮流が二十世紀のポストモダンとどう違っているのか、ということをみんなで清水さんから聞き出す会、みたいな感じ。会場は、都心の高級マンションの最上階にあるロフト付きの大きなワンルームの部屋。窓から都会の夜景がよく見えるし、朝になると朝日も見える。
●USTの録画があるけど、十五分しかない。六時間を超えるトークのなかの十五分。この部分は、午前二時半すぎくらいだと思う。はじまって四時間後でもこのテンション。
http://www.ustream.tv/recorded/101276842
●(以下は、ぼくの考えも適当に混ざって汚染されているので、正確なレポートではありません。)
録画部分ではメイヤスーの話をしているけど、ここより前の部分では主にハーマンについて、というか、清水さんが書き上げたばかりの(計百枚の)ハーマン論に沿った話なのだと思うけど、ハーマンの理論(三項関係)の粗いところや足りないところを、ジェームズの純粋経験論や、パースの記号学や、エドゥアルド・コーンのメーティスの模倣などを使って上手く補填してやると(それは、パースやジェイムズやコーンを、ハーマンを使って補填するということでもあるのだろう)、非常にすっきりした理論ができるという話をしていた。
オブジェクト指向存在論で言われるオブジェクトは、唯物論的な「モノ」とは違っている。たとえばハーマンは、EUや婚姻制度なども「オブジェクト」だと言う。でも、その言い方は分かりにくいので、清水さんは「エタック島」という例を出す。エタック航法というものがある。カヌーで、ある島から別の島へと移動する時、その二つの島を結ぶ線からズレたところに、エタック島という架空の島を設定することで、カヌーが今いる位置を知ることができる(出発した島がカヌーから見えなくなる距離を一エタックとし、一エタック進むごとに、カヌーから見たエタック島の位置が、スターコンパス一ずつズレてゆく)。この時、エタック島はオブジェクトである、と。
ここから、文学や美術におけるサンボリズムの話になる。シンボルはオブジェクトと言える。たとえば、印象主義は主観(感覚)と客観の相関を問題とするが、シンボルは、感覚から脱去することで主客の相関という問題から脱去させ、その外にあるフォームとして機能する。ポスト印象主義は形式を問題にする。ゴーギャンは形態のシンボリズムであり、色彩のシンボリズムである。セザンヌは、色彩は脳と宇宙とを共鳴させると言う。
●シンボルは抽象的なものというより、持続する仮説のようなものとしてある。ジェームズの純粋経験論で言えば、経験Aが、それ自体として他の経験と連接すべきものとしてあるとき、これをパースの記号学に照らすとイコン的段階と言える。そして、経験AとBとが連接するという経験が生じる(BであればAである)。この連接が生じることはインデックス的な段階と言える。さらに、別の経験Cが、経験AとBとの連接を論証するという段階がある。この論証により「BならばA」という仮説Cが確立する(アブダクション)。これがシンボル的段階で、ここで、一度きりの経験の連鎖ではない、持続する仮説-連接としてのシンボルが成立する。
しかし、オブジェクトとなったシンボルは、特定の経験の連接には還元されない。巨石が、ある時代には神聖のシンボルであったが、別の時代には、空から落ちてきたものとして、俗性のシンボルに変わるかもしれない。つまり、ある特定の経験の連接過程でシンボル(持続する仮説)となったものも、別のインデックス的連接に(遡行的に)開かれているので、書き換えられ得る。何かのシンボルであるという機能だけが残り、中味は書き換えられるかもしれない。あるいは、「BであればAである」という仮説は間違っていたということが分かり、別の様々なインデックス的連接が試され、「BであればEである」という、より確からしい仮説に書き直されることもある。つまり、インデックスとシンボルには往還関係がある。だから、一つのシンボルの上には複数のインデックス的連接が交叉していると言える。これが、主客の相関から脱去するシンボルのモノ性と言えるのではないか。
●ジェームズの純粋経験論では、経験Aは、経験Bと連接することで、事後的に、それを予期した主体となり、経験Bはそれによって客体(モノ)となる(経験Aと経験Bの連接それ自体も経験である)。しかし、上でみたモノとなったシンボルの場合、モノとしてのシンボルがあることによって、そこから遡行され得る複数のインデックス的連接が見出され、つまり、遡行された先の、あり得る複数の主体がみいだされる。この時、一つのモノ(シンボル)の上で、複数の主体=視点がみずからの主体性(仮説としての妥当性)を賭けて争い合っていることになる。
(シンボルBの上で、「BであればAである」「BであればEである」「BであればFである」…、という複数のインデックス的連接が並立的に折り重なり、争い合っている。)
これを、一つのオブジェクトをめぐって優位を奪い合う主体間の抗争ととると、ボールゲームのように、一つのボールが主体間の布置を書き換えてゆくゲームになるし、オブジェクトの意味を書き換える(別のインデックス建設を検索する)ことで自分を書き換えるととると、自己(再)制作としての「モノの制作」という話にもなる。
(ボールゲームのモデルと、椅子取りゲームのモデルは異なる。椅子取りゲームは、少ない数の椅子を、似た者同士が取り合う。一つの秩序内で、場、あるいは座の所有権が争われる。ボールゲームは、一つのボールをめぐる、異なる目的をもつ者たちによる闘いになる。ゲームが持続する限り、ボールは移動しつづけ、主体間の布置は変化しつづける。ボール=モノの本質は脱去するので、誰も所有できない。)