『ゴダールのマリア』をビデオで

●『ゴダールのマリア』をビデオで。この映画は、ミリアム・ルーセルのまるい顔(ことさらまるい、その目玉)の印象から、バスケットボール、月や太陽、まるい照明、まるい膝頭、まるい乳房、そして妊婦のまるい腹部へ、という、安易な連想によって着想されたのではないだろうか。そしてラストに、それらまるく膨らむものが、まるい窪み(空洞)としての口(唇)へと反転する。マリアという説話的次元の主題すらも、そのようなまるいものの連鎖からの導きだされたに過ぎない感じだ。(それに対して、角張った印象をもつ男たちの顔や、ルービックキューブなどが、対抗主題としてある。)ゴタールの映画としてはめずらしく、あからさまにテマティックな画面の連鎖から出来ている。しかし、着想や内容なんていうのはその程度の安易なもので充分で、ゴダールの映画はあくまで、具体的な撮影と編集という作業によってつくられるのだ、ということがよくわかる。(ただバスケットボールをしているだけのシーンのすばらしさ。)
この映画で特に感動的なのは、何度も繰り返しあらわれる水(水面)の主題が、最後になって予想外に裏切られる(ずっと、あくまで「表面」としての水面であったのが、最後に、表面を切り裂くように、その内部から子供を抱いたマリアがぬっと現れる)シーンだった。なにものかが「出現した」という感じ。何度も観ているはずなのに、あらためて「おおーっ」と思った。