●外は夜で、ぼくは、間口が狭くて奥へと長くつづいている建物に入ってゆく。そこには人が大勢いて、なかには知り合いも何人かいる。建物の奥に向かって進みながら、目が合った知り合いから声をかけられ、こちらも挨拶を返す。「こんにちは」「こんにちは」。また、別の知り合いにも声をかけられて返す。「こんにちは」「こんにちは」。さらに奥に進んでゆき、また知り合いがいて、今度はぼくの方から声をかけた。「こんにちは」「こんばんは」「あ、こんばんは」。
たったこれだけのことなのだが、この場面の記憶が、最近のこととしてかなりはっきりとあるのだが、これがいつで、どのような状況だったのかがまるで思い出せない。知り合いが、具体的に誰なのかも思い出せない。だが、これは夢ではなくて、現実の出来事だという感触はある。最近のことで、このような状況があり得ると考えられるのは、府中市美術館のオープニング・レセプションか、阿佐ヶ谷美術専門学校でのレクチャーくらいなのだが、どちらも、建物の印象が違うし、まだそんなに暗い時間ではなかった。記憶では、外が暗かったというところは鮮明なのだ(「こんばんは」だし)。
ではやはり夢なのではないか。最近、あまりに鮮明で具体的な夢を見て、起きてからしばらく、それが夢だったのか現実の出来事の記憶なのかが混乱することがある。しかしそれは、目が覚めてからしばらくのことで、目覚めてから時間が経ち、現実的、日常的な文脈が強く支配する流れのなかに入ってしまえば、夢の現実性は自然に消えてしまう(夢の印象はのこるとしても)。しかし、この記憶は、「これは現実である」ということを主張しつづけている。外が暗かったこと、奥へとつづく空間だったこと、「こんにちは」と三回言って、その後に「あ、こんばんは」と訂正したこと、には、間違いなく現実としての手触りが残っている。にもかかわらず、現実の文脈のなかに、自分の行動の記憶の関連のなかに、それが占めるべき位置がみつからない。別に、それで何か困るようなことがあるわけではないのだが、なんか気になる。(なんか、こういうことでも、自分がもう一人の自分へと分裂する感じの予感のようなものが匂う。)
●初対面で飲む機会があった人がいて、その人は饒舌なんだけど話の中味がぜんぜんないつまらない話しかしない人で、いつまでそのつまらない話をつづけるんだと思いながら大人の対応で適当に聞き流していたのだが、(ぼくがあまり喋らないから気を使って話してくれているのだということは分かりつつも)いいかげん酔っぱらってきたのと、軽くむかついたこともあって、その「どうでもいい話」にちょっと意地が悪い突っ込みをいつくかつづけていれてしまい、言ってしまってから後悔したのだが、その後、いままでつまらない話しかしなかった人の口から、少しずつ実感のこもった「まともな話」が出るようになって(つまり、「公式的見解」じゃなくてちゃんと「自分の話」をするようになって)、いくつかのとても面白い話が聞けて、そこで、人とはちゃんと突っ込んで話すべきなんだなあ、というか、つまらない話には「それつまんないよ」とちゃんと言うことが真面目に人と話すということなのだなあと思い知らされ、ちょっとナメていたような自分を恥ずかしく思った。
これは自分でもすごく思い当たることだけど、「男の子」っていうのはどうしても社会的な動物で、(ただ突っ込まれないためだけに)どうでもいいような「公式的見解」を張り巡らせて自分をガードしているというようなところがあって、でもそれってすごくつまらないことで、しかし稀に、男性でも、そんなこととまったく無関係に存在している「さわやかな人」っていうのがいて(そういう人は大抵、「イメージ」としては全然「さわやか」ではないのだが)、そういう人に会うと、それがいかにつまらないことかってことが分かる。
(読み返してみると、「お前がそれを言うのか」っていう突っ込みを自分にいれたくなるけど、そういう「突っ込みどころ」はあってもいいんだと思う。)