●言葉によってすべてを把捉したいと思っている人、というか、たんに「言葉」が一番偉いと思っている人は、「言葉では把捉できないことがある」というような話をすると、すぐ神秘主義だとか「詩に逃げる」とかバカげたことを言い出すのだけど、全然そんなことじゃない。もっとありふれた、自転車に乗るとか泳ぐとか歩くとか喋るとか見るとかいうこと(それを「する」ということ)さえも、言葉では把捉できず、しかし人は、当然のようにそれやっている。なにかを「すること」は常に「具体的」なことだ。「泳ぐ」ということの詳細を言語によって「記述する」ことはできるが、それは泳ぐことを「把捉する(把握する)」こととは違っていて、その記述を読んだからといって泳げるようになるわけではない(記述が詳細になればなるほど、それは把握からは遠くなる)。こういう事を言うと、泳ぐことを記述することよりも、泳ぐことを実践する方が偉いと言っているかのように読む人がいて困るのだが、そういう事ではなくて、たんにそれは「別のこと」だと言っているのだ。だから、泳ぐことを記述することによって、泳ぐことを把捉する(泳げるようになる)という行為を梱包する(代替し、支配する)ことは決してできない、ということを言っている(つまり、言葉-記述が知を代表することは出来ない、と、言葉だから駄目だ、ではなく、言葉は複数あるもののうちの「一つ」に過ぎない、ということ)。逆に、泳ぐことを実践できる人だけが偉くて、それを記述・分析することは二次的なものに過ぎない、ということでもない。双方は根本的に「別のこと」ではあるが、「別」であり、あくまで独立しつづけながらも、互いに影響し合うだろう(双方を媒介するのが「技術」だと言えばなんとなく通りがよいけど、通りが良過ぎて嘘臭い感じがする、その関係はもっと不確定なもののように思う)。「把捉し実践すること」に対する尊敬や驚嘆のない「記述し分析すること」は下らないし、逆に、「記述し分析すること」への興味を失った「把捉し実践すること」はやせ細るしかないだろう。
だが、こういう言い方もまた罠で、これではまるで記述と実践の二元論になってしまうのだが、そうではなく、把捉し、実践することのなかにも、複数の「別のもの」である原理やシステムが同時に作動していて、それによって把捉や実践が成立している(28日の日記で言っているのはそういうことだ)。というかそもそも、記述するというのも、記述「する」のであって、記述することを「実践する」ということなのだし(だから「メタ言語は存在しない」のだし)。
だが、把捉し実践することを「記述し分析し」ようとする時、しばしば、それを記述するための原理である「言葉のシステム」に従って実践への分析がなされてしまうという傾向があり(分析哲学の隘路)、その時、記述は実践への暴力として作動してしまう。記述し、分析するシステムとは、そのまま表象する(表現する)システムでもあるから、その暴力は、見えるものによる、見えないものへの暴力ともなる(だから暴力そのものが隠蔽される)。だから、何かを記述し分析しようとする時には、把捉と実践という「すること」のなかで動いている複数の「別のもの」であるシステムがそれぞれ「別」の原理で同時に動いていること、に対する最大限の繊細な配慮が必要となる。まったく別の原理で動いている複数のシステム(その一つ一つは別に「神秘的なもの」ではなくごく普通のことだろう)が、それぞれ並立的に(いわば勝手に)作動しながら、そこからある「イメージ(かたち)」が浮かびあがるということのに対する驚嘆がなければ、あるいはそこで浮かんでくるものの「質」に対する驚嘆がなければ(つまり、記述と分析の側の「都合」だけでそれが行われるならば)、記述と分析はたんなる暴力になる。あるいは、たんに退屈なものになる。(勿論、そのすべてを正確に詳細に遡行的に記述することは不可能で、記述は常に近似値であり、あるいは、因果関係は、常に因果関係の想像化でしかないのだが。つまり、因果関係の「イメージ(かたち)」なのだが。)
●「笑われる」のが怖いから、それより先に「笑わせ」てしまおうというのは、お笑い芸人的な主体なんじゃないかと思う。あるいは、(笑われる-虚仮にされるというのは、象徴的な他者から軽くみられるということで、それは普通の男性にとっては、否定されたり嫌われたりすることよりも耐え難いことなので)「笑わせる」ことによって「笑われる」ことを先取りして、その象徴的な意味(位置)を転換させてしまおうとする、というのか。そこには、笑いを能動的に制御する知の主体があり、それは普通に、男性的、神経症的な主体性が洗練されたもので、だから、男性のお笑い芸人には「天然」が少ないし、芸としての自己卑下の裏で割りとみんなプライド高そうだし、島田紳介みたいな、裏で糸を引くあざといプロデューサー的な人が尊敬されたりする。
対して、アーティストは、「笑われる」ことに対する恐怖があまりない。というかむしろ、「笑われてなんぼ」という感じではないかと思う。「笑わせ」ようという意図などない行為が、結果として「笑われて」しまった時こそ実は、そこで何かが生まれ、何かが通じたということで、それはとてもうれしくて、それこそがよろこばしい(そこには「笑わせる」主体はない)。
●四谷アート・ステュディウムにレクチャーを聞きにゆく(批評(創造)の現在4/福永信・松井茂・水無田気流)。人が話しているのを直接聞いて(見て)面白いのは、その話す内容よりも、話口調やキャラクターなのだとつくづく思った。話を聞くというよりも、人が話すところを見にゆくという感じ。そういう意味で、とても面白かった。レクチャー終了後、福永さんとはじめて少し話しをした(以前、ちらっとすれ違ってはいた)。岡崎乾二郎さんには、ちょっとご挨拶しただけだったが、「ずいぶん老けた」という感じと「とても若々しい」という感じが多重露光のように同居していて、不思議な印象(身のこなしとか、立ち姿とかが若々しい)。レクチャー後のディスカッションの時に岡崎さんのする話を聞いていて、岡崎さんと自分との根本的な違いが確認できて、それも面白かった。(なお、上の文章は出かける前に書いたものなので、レクチャーの内容を一切反映していません。念のため。)