調布市文化会館まで、野上亨介さんの新作の完成準備版の上映を観に行った。『磁気と火山』というタイトルで、ドゥルーズの『意味の論理学』のフィッツジェラルドに触れた章(というか、アル中についての章)からタイトルがとられている。今までの野上さんの作品は、対象や主題から常に一定の距離をとったクールな作風だというイメージがあったのだが、この映画では、カラックスの『ポーラX』などを思わせるような、のめり込んだ(思い入れが込められた)調子で、ダメダメな主人公が崩壊してゆく過程が描かれる(主人公はアルコールで体がボロボロであり、女性にたかり、盗みや詐欺まがいのことをして生活している)。その一方で、その崩壊して行くダメダメな主人公を支えるものとして、成田闘争に一生を捧げた大木よねという女性が、自ら望んで、成田空港のB滑走路の下に土葬されているというイメージが、何の脈略もなく映画内に召還され、強引に接合される(それは事実であり、大木よねは実在した女性だという)。なしくずしに崩壊してゆく、その過程にある者(「もちろん、すべての生活は崩壊のプロセスである」フィッツジェラルド)と、(崩壊を終えた)死者であることによって確固たる存在となり、死後もなお自らの意志を示すように滑走路の下によこたわる死体というイメージのモンタージュ。このモンタージュによって、この世界のなかの、あるひとつの生の有り様の可能性を描き出そうとしているように思われた。ただ、この完成準備版では、後者のイメージがやや弱いように感じた。映画の前半から、意味不明で唐突な(分離した)感じになっても、後者のイメージをもっと強く出してもいいのではないかと思われた。
●昨日書いた、視点の限定性(の自覚)によって異なる別の視点(別の経験)との交換可能性(変換・翻訳可能性)が開かれるという話(そのようなやり方で世界や他者を理解しようとすること)は、全体を俯瞰的、網羅的に理解しようとするということ(そのような世界把握)とは真逆のことがらだろう。
とはいえ、人はどうしても俯瞰的把握を求めてしまうし、それをまったく無くしてしまうことは出来ないことも事実だろう。しかしその時、物事が複雑になればなるほど、そのすべてを完璧に把握することは出来なくなり、それを一種のイメージとして、隠喩として捉えるしかなくなる。まさに、ラカンの描く、鏡像段階にいる子どものように。その時、身体はたんに身体のイメージでしかなく、イメージを得ることと、身体が操作可能になることとは異なる。しかし、先取り的に捉えられる(全体性としての)「一つの身体」というイメージが、身体を能動的操作へと導き、その獲得を可能にする。人は、自らの持つ世界観が、正確でも完璧でもないことを知っているが、しかし、偏った、不正確なものでしかないとしても、世界観を媒介とせずに、直接世界とアクセスすることは不可能だ。そして、身体イメージと世界観とは分かちがたく絡み合っていて、つまり人は、身体と同時に(自分にとっての)世界を構築する(メルロ=ポンティ)。それは、半分は主体形成以前の出来事(原生的排除)であり、もう半分も、意識以前の出来事(抑圧)であろう(フロイト)。身体イメージ-世界観は、運命のように既に前もってその人に刻まれてしまっている。だから<世界観の意識的な書き換えはきわめて困難であり(しかし不可能ではないと信じたい、芸術とはまさにそのための行いだ)、そして、世界観の崩壊は同時に、身体イメージの崩壊であり、つまり精神と能動性の崩壊、その人そのものの崩壊となってしまうだろう。
芸術は、世界観にはたらきかけることで身体に介入し、身体イメージにはたらきかけることで世界に介入するだろう。作品を通じて、制作を通じて、日々のレッスンを通じて。決して、世界も身体も崩壊させないやり方-技法で。