●『涼宮ハルヒの憂鬱エンドレスエイトの5話から8話までをDVDで。最後まで面白く観られた。さすがに、中だるみを感じるところとか、単調にならないようにする工夫がうまくいってないと思われるところとかもあって、もうちょっとうまくやれるんじゃないかと思ったりもしたけど、そのような点も含め、同じ話をきっちり八回反復させるという、誰でも思いつきそうだけど、実際にやる人はなかなかいないようなことを、実際に観る、という経験は面白いものだった。結末のつけ方も、想定されたいくつかのパターンのうちのひとつで、あっと驚くというものではなかったけど、しかし、考えられる限りではもっとも適切な終わらせ方だと思った。一万五千五百何回も夏休みが繰り返されてようやく、ハルヒの孤独が救われたかのようなラストで、ちょっと感動した。
●演劇とかダンスとかを観るようになると、例えば映画が、特定のカメラの位置、特定のフレームをもつことが、なんというのか、「わざとらしい」と感じるようになってくる。演劇を観に行く時、自分が座る席はたまたまそこに決まるのであって、まったく別の位置からそれを見ている人もいるし、それでも成り立つ。つまり映画が、ある出来事が、ある特定の視点、特定のフレームでなければ成り立たないということは、あまりにその視点・フレームによる「効果」に頼りすぎていると思えてしまう。パフォーマンスを観る時、偶然に決定されたきわめて限定された視点しか持ち得ないことが、逆に、自らの視点を相対化し、まったく別の視点から同じ出来事を観るという経験の可能性を(自らの経験をそのようなものとして組み立て直すことも出来得るという可能性を)開くように思われる。自分自身の位置が、たんに交換可能なひとつの視点でしかないと意識することによって開ける何かを、得ることが出来るように思えるのだ。これは、一昨年出した本で自分で書いたのとまったく逆のことを言っているようだけど。
映画が、ある特定の視点、特定のフレーム、特定のモンタージュを強いることによって観客が得られる経験は、それが特定されることによる「効果」から離れられない(例えば、映像に記録されたダンスを観る時も、同様の「息苦しさ」のようなものを感じてしまう)。映画では、視点をいくら複雑にしても、一本の線としての特定のモンタージュをもってしまう。パフォーマンスの重要性は、それがナマ(ライブ)であるということよりもむしろ、観客の一人一人が、その全てを把握することが出来ず、ある特定の限定された視点のみが与えられていることが最初から自覚しているという点にあるのではないだろうか。わたしとあの人とでは、別の視点から、同じ出来事を見ている、という自覚が、逆に、互いの経験の交換可能性(翻訳可能であること)を開くのではないだろうか。この視点からそれを観ながらも、常に、それ以外の視点から見ていることもあり得ることが意識されている、ということによって組み立てられる経験の有り様。それによって得られるもの(幅?)。
それは、空間的な位置の問題だけではない。例えば演劇では、昨日の昼の回と、今日の夜の回とでは、同じ公演(同じ演出、同じ戯曲)であっても、まったく同じではあり得ない。わたしが観るのは、そのうちの一回か、せいぜい二回くらいで、その公演の全体像を把握することは、はじめから諦めざるを得ない。ここでも、視点の限定性が意識される。空間的な位置の限定性の自覚と同様、たまたま「その回」しか観ることが出来ないという限定性の自覚もまた、別の回を観ることもあり得たという、視点の交換可能性、経験の翻訳可能性を開くように思われる。映画では、同じものが何度も正確に反復されるので、その全体を(その唯一の全体を)完全に把握したいというパラノイアックな欲望と結びつきやすいような気がする。
このような自覚は、ぶっちゃけて言えば、まあ、どっちにしても全部は見えないんだから、どっから観てもいいんじゃねえ、というような、ある種の鷹揚さのなかでの経験(作品の経験の有り様)をも可能にするように思われる。繰り返すが、これは、自分がいましている経験は、他にもあり得る無数の経験のうちの一つであり、つまり自分の限定的な経験は無数の別の経験の(幽霊のような)厚みと共に(同時に)あるというようなものだ。経験の限定性によって開かれる交換(翻訳)可能性。
●以上のことはつまり、「エンドレスエイト」を観ての感想なのだが、つまり、同じ話を八回も律儀に反復するという退屈さによって、画面が特定のフレームをもち、特定のモンタージュをもってしまうことによって逃れがたくつきまとう「効果(の唯一性)」から離脱可能になっているのではないか、ということだ。この作品での反復は、可能性の全てを汲み尽そうとしてなされているのではなく、すべての反復が偶然に任された断片でしかないようにいい加減に投げ出されている。そしてまさにそのことが、細部の描写を全体の流れのなかでの特定の位置から解放し、位置をもたない不安定なものとすると同時に、活気づけさせるのではないだろうか。