攻殻機動隊』は、一個一個のアイデアはそんなに驚くべきものではない気がするのだが、一個の作品に投入されるアイデアの量と、そのアイデアたちを結びつけるがっしりとした構築性が際立っている。けっこう素朴な、そのまんまの時事ネタだったりするのだが、その「そのまんま」さが隠れるくらいに、多数のアイデアが盛り込まれている感じ。
スタンドアローン・コンプレックスというという言葉が何を意味するのかはよく分からないけど、作中で荒巻課長の言う、「個々の自律した者たちのスタンドプレーが、結果としてチームプレーになる」というような意味なのだとしたら、そのコンセプトは、神山健治押井守から受け継いだものなのだろう(ぼくは、押井守のもっとも良い作品は、パトレイバーの劇場版の二作目だと思う)。それは職人たちによるギルドとか、ゲリラ組織のようなイメージで(独立愚連隊みたいな)、でもそれは、非常に強い、確固たる「個」をもった存在による、極端な少数精鋭主義としてはじめて成り立つのであり、エリート主義となるしかない(それは常に不確定要素-あたらしい人に、開かれてはいるのだが)。一方で、あらゆる個がネットのなかで融合されるかのような現状が描かれつつ、しかしそこで不可避的に起こる事件は、特別に強い、自律した個をもつエリートたちの集団である公安九課のような、(「国家」に内属された)組織によって「回収」される必要があるというのが『攻殻機動隊』の世界で、これはそのまま、強力な官僚主義へとつながる危険な一面もあるものだ。「くぐつ回し」の話(くぐつ回し=草薙素子の裏面)が示しているのは、そういうことでもあろう。
一方、無数の無名の弱い個たちが、自分たちの「意志」を代表(代理表象)する者として、強力なハブとしてのカリスマを必要としてしまう、というのが「個別の十一人」の話だろうし、「笑い男」という内実のない「名-形式」だけがそれ自体として増殖し、多くの弱い個が、それを自分自身だと勘違し、その、よそから借りてきた名-形式によって自身の像(個)を得る、というのが「笑い男」の話だろう。ここでもまた、まさに、無名であり、匿名であり、自律的個をもたないがゆえに、ハブとして、または名-形式としての「強い個」が求められる。そしてその逆説として、介護ネットを通じて発生した、誰のものでもない、集合知的な老人たちの「総意」は、一人の官僚の野心によって「操作」され「利用」されてしまう、というのが「くぐつ回し」の話だ。だからここでは、九課のエリート主義とはちょうど裏返しの出来事が起こっている。
草薙素子は「くぐつ回し」の話の最後で、自律した自由な立場(無限定な超人)であることを捨て、公安九課という組織の「一部分(役割)」として、自分自身を改めて限定することになる。それがこの事件(制御不能な自分の裏面の発見)の教訓だろう。「くぐつ回し」の話では、九課の組織としての有り様も変化していて、組織としての側面を強化し「特別な個」への依存を弱めようとしている。スタンドプレーの集積としてのチームプレーという概念は、否定はされないが弱められ、ある枠内に限定される。
この作品にあるもう一方の方向性、ネット空間による情報の並立化によって個が融解されるという方向にしても、「個別の十一人」では、力を束ねる強力なハブとしての強い個-革命家が必要とされる(裏で暗躍する「プロデューサー」もいるし)。ここで強い個である革命家は、絶対的な唯一性としてではなく、「消滅する媒介者」ではあるが、媒介者たり得るために、特異的な「強い意志」が必要とされる。「笑い男」では、個としての統覚の弱い者たちが、自らを主体化するためのペルソナとして、笑い男という名-形式-エンブレムを必要とする(まさに佐々木中-.ルジャンドル的な意味での「エンブレム」)。「くぐつ回し」での、貴腐老人たちの総意としてのソリッドステイトの「意志」は、結局一人の官僚によって先導され、利用されるものでしかなかった(そして、それを突き止め、回収するのは、九課のエリートたちなのだ)。つまり、こちらでは逆に、「個」を完全に消すことは出来ず、集合化された意志は、一つの個(少なくとも「個」であるというイメージ-形式)を必要とし、あるいは、集合知としての「総意」が一人の強い個に利用される。
つまりここでは、裏表両面から、やはり近代的な手続き(三権分立みたいな力の限定、分散、相互監視、と、その範囲内で--それがフィクションであるにしても--機能する「自律した、選ばれた個-エリートたち」という形象)は最低限必要だよね、集合知もやっぱ代表-表象を必要とするよね、という(ある意味常識的な)話に落ち着く。その意味で、ロマン主義的な押井守のコンセプトは批判的に吟味されつつも継承されていると言える。
一見、電脳空間を背景とした、まったく新しい個や社会の有り様を探求しているようにみえるけど、「個別の十一人」は、草薙素子という特権的な個が、自らと同等の個の特異的な強さをもつ男と出会うという話であり、「くぐつ回し」は、草薙素子が、電脳空間を媒介として反転された自身の鏡像と出会うという話であるとまとめることも可能で、それらは古くから物語が繰り返しずっと描きつづけてきた「私」をめぐる話として回収可能なのだ。「笑い男」も、人が自らを主体化する時、外側から与えられた名とイメージを必要とするという話として見れば、これもまた「私」をめぐる古典的な主題で、そういう意味からも、押井守のコンセプト(「私」の自己言及性)は、バージョンアップされた形で継承されている。