●起きたらすごく天気がよくて、天気予報だと明日から当分天気が悪いようなので、今日は制作はお休みにして外をうろうろ歩く。ついでに立川まで足を伸ばして足りない画材を買う。
●立川でふらっと立ち寄ったオリオン書房でなんとなく目について買った、藤山直樹という人の『集中講義・精神分析』(岩崎学術出版社)という本がすごく面白い。まだ、上下二巻の本の上巻の半分くらいしか読んでないけど、この部分では、精神分析の理論についてというより、精神分析という「営み」について分析家が語っていて、そこがすばらしく面白いのだった。精神分析を、胡散臭いとかカルト的だとか近寄りがたいだとか思っている人は、まず、この本の第一章「精神分析とは何か」を読むだけで、ずいぶんとそのイメージがかわるんじゃないかと思う。
まず、たんじゅんに驚いたのは、今、日本には分析家が三十人しかいないという事実だったりする(とはいえ、ラカン派は国際精神分析学会には所属してないはずなので、ラカン派を含めると違った数になるのかもしれない、その点については詳しく書いてない)。あと面白いのは、メラニー・クラインが大学を出ていない、ということ。彼女は、自分が鬱になって治療に行った先の分析家から、分析家としての才能を見出されて、分析家となることを促されたのだという。この出来事そのものが精神分析的だ。
精神分析の理論が、何でも説明出来てしまう便利なツールとして(故に胡散臭いものとして)流通しているのに対して、著者は、精神分析という「営み」が、きわめてクローズドなものであることから語りはじめる。精神分析について語ることが出来るのは、(分析家としてであれ、被分析者としてであれ)精神分析を「営んでいる人」だけだと言う。つまり、精神分析は分析する-されるという二人のカップルの間-関係においてしか作動しない知であり技法である、と。そしてそのプラクティスは非常に個人的なもので、分析家とクライアントの間の個人的な「契約」によって成立する(公的な制度には馴染まない)。クライアントは、分析家のプライベートな空間まで出向いてセッションを受ける。よって、大学やアカデミズムといった「開かれた」場所にも馴染まず、分析家になるための教育は、長年分析-治療を受け続けるということによってしか行えないという。
精神分析エビデンス・ベーストではないんです。エクスペリエンス・ベーストなんです。》《…さて、基本的に精神分析は、精神分析の治療自体が一つのリサーチなんです。実はそれしか方法がないんです。精神分析の治療をしてものを書くということを積み重ねてきた学問なんです。それは非常に主観的なものです。》《発達心理学で口愛期があって肛門期があって男根期があるなんて全然立証されないというか、そんなものは全然ないんです。(…)観察で得られたものではないんです。(…)けれども私たちが考える、そして臨床状況のなかで起こっている乳児的なこころというものにかたちを与えるときの言葉としては、すごく力があるんですね。》《(…)精神分析は発達観察のなかから実証的に生まれてきたものではないんです。臨床のなかで仮説が形成されていって、臨床のなかで検証されているんです。》《口愛期、肛門期、男根期というのは一つのメタファーであり、お話であり、一つのストーリーなんです。発達観察ではつかまりませんから。しかし単なるお話かというとそうではないんですね。分析家がある程度それに基づいてものごとを感じ、考え、そして患者に提供すると、それは患者を動かすんです。》
臨床のなかからつかみ取られ、それによって形成された仮説-お話が、臨床の場において検証される。しかしそこには、実証的な(つまり外的な)根拠はない。その正しさは患者を実際に「動かす」ということによってしか証明されない。しかし、本当に何かが「動いた」かどうかということは、あくまで患者の内的な過程であるから、患者自身と、患者が動いたと実感する分析家にしか分からない。ここにあるのは、(例えば「裁判」のような過程とは異なる)第三者の不在であろう。
《(…)精神分析においては治療は二人でやるものなんです。二人でやるということは、そこに客観者がいないということです。必ずその営みに治療者も巻き込まれているわけです。客観的にそこを見ている人は誰もいません。(…)要するに、あえてとても二者関係的なややこしい世界、公共性が生まれがたいような状況をつくり出しているのです。そこで何を得ようとしているかというと、公共的な何かです。知るということです。人間が知るという、公共的な知というものを本当の意味で生み出すことが難しいということに直面する場所なんですね、ここは。》
そこには、あらかじめ保証された第三者が存在しないからこそ、事前に存在しているわけではない「公共性」を、二人の関係のなかから、その都度立ち上げようと模索すること。その過程では、分析者-治療者もまた、必然的にその渦に「巻き込まれ」ている必要がある、と。《昔の精神分析はわりと中立性などといって、とにかくクライアントがどういうことを言っていてもセラピストは基本的には中立のスタンスを維持できると考えていたわけです。ちょっと買いかぶっていたわけです。でも、どうもそういうことはなさそうであると。》
現在の精神分析では、クライアントのこころが直接的に分析家のなかに入ってくるということが考えられているそうだ。例えば、クライアントが常に人から疎外されていると感じている人だった場合、分析家もクライアントから不信感を向けつづけられ、その対人プレッシャーから、分析家は無意識のうちにクライアントを疎ましく思い、冷淡になってしまったりすることがある。分析家がそれに気づかない場合、治療は上手く進まず、自分に自信がなくなり、分析家はクライアントに疎まれているんじゃないかと感じるようになる。つまり、クライアントの分析家に対する感情が、そのまま、分析家のクライアントに対する感情として反復されてしまう。《クライアントのこころがセラピストのなかに生きるということです。クライアントの世界がここにlive outつまり生きてくる。》《そういうことに最近の精神分析はコンシャスになってきている。》
分析家とクライアントとの関係は確かに非対称的なものではあるが、一方的に分析-非分析という関係なのではなく、お互いにお互いを巻き込み、引き込み合う関係として進行する。その時、分析家の無意識が中立であるということはあり得ない。その偏りも含めて分析家は自らの無意識を差し出し、その無意識を媒介にして精神分析という過程は進行する。
《患者が転移といって、セラピストを殺したい気持ちになったりとか、ものすごく大好きになっちゃったりとか、恋愛感情を抱いたりとかするわけだけど、そういうものはもちろん本物なんですね。本当にアクチュアルなものです。けれども精神分析的な設定がうまく機能していれば、患者は面接が終わると金を払ってちゃんと帰るんです。それはやはり本物ではないということをどこかで知っている。だけど本物なんですね。本物であって本物でない。》
フロイトはこの辺を非常に見抜いていて、一九一五年の転移性恋愛の論文で、転移性恋愛を真実の愛情だとはっきり言っています。治療中に起こってくる恋愛は真実の愛情であって、それを本当のものではないという権利は誰にもないんだと。これは本物でじゃないよってごまかすのは間違いだと。けれども、分析家はそれを患者さんの病理や患者さんの無意識のどこかからやってきた何かとして受け取って、その意味を解明するようにしなければいけません。本物だけど本物じゃないものとして扱うことが分析家に求められているんです。それを本物だと考えて、本物としてこちらがそれを受け取って患者さんと寝てしまったら、それはセラピーではなくなってしまう。》
本物だけど本物じゃない、というのはまさにフィクションの原理だと思うけどそれはともかく、精神分析は転移-逆転移によって互いの無意識を巻き込み合うことで進行するが、しかし、分析家は、自らの感情を最後のところで「もちこたえ」て、患者に対してただ「解釈」だけを与るのだ、と。
《普通の人間関係で、苦しい人がいたら「大丈夫よ」とか言ったりするでしょう? (…)こういうアクションは精神分析では全部禁じられているわけです。「大丈夫よ」と保証しない。「よくわかるわ」と安心させない。ただ、「よくわかるわ」と言いたくなるのは事実です。そういうとき分析家はどうするかというと、「あなたは、私に、よくわかるよ、というふうに言ってほしい気持ちを強くもっているけれども、それが私に伝わっていないのではと心配なんでしようね」と、たとえば、言うんです。自分がそういう気持ちになったということは、患者が必ずそういう無意識的な圧力を加えてきているんだということを想定して、そこから患者の気持ちを理解して、患者の内部を理解するというワークをこころのなかでやって、そこである言葉が生成されたら口に出すということ、そういうプロセスをやり続けるんです。それ以上のことをやらないんです。つまり、保証や激励や助言や命令や禁止といったアクションを差し控えてもちこたえます。》
《解釈というのは、こちらが何か言って、患者が「そうでございます」と言うことを望んでいるわけでは、全然ないんです。ここの場で生成されたものを、ここにヒュッと置いたときに、そこにまた何かが生まれてくるんです。そこに何も置かなければ、患者はセラピストが何もしてくれなかったと思うわけです。ヒュッと置くと、患者はさっさとそこを無視して通り過ぎる場合もあります。でも患者の無意識はちゃんとキャッチしてますから。精神分析は患者の意識に働きかけているわけじゃないんです。(…)解釈しかしないというのが分析家の仕事なんです。(…)だだこうやってここで起こっていることから何かを考えて、特に起こっていることによって引き起こされる、自分の情緒、自分の気持ちから何かを考えて、I think that you feel……とかいうようなことをフワーと言うわけです。》
分析家は、その場から感情や情緒として受け取ったものを解釈へと変換させ、I think that you feel……というかたちで患者に与えつづけ、患者の無意識がそれをキャッチし続ける。そのような過程のなかで、患者の何かが動いて行く。
《(精神分析が与える最大のものは)物事を考える力ですが、考えるというのは単に因数分解ができるようになったりとか、そういうことではありません。情緒を含んで考えることです。ビオンは「考えることは情緒的体験だ」と言いました。つまり考えるということは耐えるということですね。考えないでごまかして行動に移すということを持ちこたえていくときに、人はある情緒を体験していかざるを得ません。そのなかで考えが生まれます。》