●『ディスポジション:配置としての世界』に収録されている「イエスの《接近−ディスポジション》」(柳澤田実)というテキストに感銘を受けた。文字通り、イエスによる「接近する」という行為について書かれていて、特に難解だったりややこしかったりする話が書かれているわけではない。要するに、他人に接近すること、そのような行為そのものが、布教であり教育であり愛である、というようなことだ。イエスが接近することで、相手に何かしらの変化が起きる(触発されること)こと、その変化(触発)それ自身がイエスの教えであるということ。
●10月28日の日記で引いた、、「ART CRITIQUE」の市田良彦のインタビューでも、言われていることはシンプルだと思う。コンセンサスの管理(調整、闘争)へと行き着くしかないような普遍主義(倫理主義)ではダメだ。ではどうすればよいのか。特異性がそのまま普遍となるような何ものか、などと言っても、具体性がないではないか。いや、たんに、そういうものを人がその都度作りだし、それがある程度の範囲で(地政学的な限定を超えて)伝播し得るのだ(差異の調整ではなく、特異性が差異を貫くのだ)ということを、つまり人の想像力を、信じればよいのだ、そして実際人はそういうものは作りだしているのだ、ということ。このインタビューでは、おそらくそういうことしか言われていない。
●『組立』所収の佐藤雄一のテキストもまた、ただ、他人の頭のなか、記憶や想像力を信じて、そこに預けてしまえばいい、と言っているように思われる。私が誰かに何かを伝える。そして、それが伝えるに足りるものであったとするのならば、その誰かは、それを記憶し、またそれをブラッシュアップして、他の誰かに伝えるであろう。その様な行為が繰りかえされることによって、新たな、一定の普遍性(恒常性)があると言うに耐え得る支持体が生まれるかもしれない、その可能性は常に開かれている、と。
●要するに、他人(の頭の中や身体)を信じちゃえば良いということ。他人に預けるという言い方だと、他人に負債を負わせるみたいだけど、そうではなく、「きっと君がいいこと思いつく(忌野清志郎)」みたいな感じ。「ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって ぼくは廃人であるそうだ(吉本隆明)」みたいに背負い込むのではなくて。
そうでなくては、一個しか身体がなくて、能力も限られていて、せいぜい百年くらいしか生きられない人間にとって、よりよく生きようとすること、少しでもマシなものを生みだそうと努力することに、そもそも意味が見いだせなくなってしまう。どーせ、大したことなど出来ないのだし、と。そうではなくて、俺は俺で、とりあえずやれるだけやってみるから、そっから後、それをどう受け取るのかは、あなたの問題、みたいな。
勿論これは反転して、あなたが(誰かが)「やれるだけやったこと」の可能性をきちんと受けとめることが出来るのかどうかが、とても重たい、私の問題となる。
だからこそ、「とりあえずやれるだけのことをやる」の次元では、通りの良さや、ウケや、時代の空気を(つまり他人の側の反応を)、先取り的にアテにしないことが重要(私は、私の身体という個別的、限定性、特異的な場において、それをするしかない)。勝手にやって、その後、それが通るのか通らないのかは、人任せにするしかない。そうでないと、他人に預ける、ではなく、他人を操作する(あるいは他人に、場に、操作される)、になってしまう。
●記憶なので正確ではないかもしれないが、『組立』のシンポジウムで佐藤雄一さんは、投瓶通信のもともとの意味は、ある詩人(失念した)が収容所にひっぱられる直前に、奥さんに、これから自分の遺作を言うから記憶してくれ、と言ったことだ、と言っていた。自分の大切な遺作を、(一字一句正確なテキスト−アーカイブとしてではなく、変形されたり忘れられたりする可能性のある)身近な人(固有の誰か)の「記憶」に(ということはつまり、その身体全体に、ということになると思う)預けてしまうこと。その人の記憶(という支持体に)に、それがより遠くへ届き得る可能性を賭けてしまうこと。
●あなたの頭のなかの私こそが、「私」なのだ、というのか。